第8号(2009/2/1)●6-7面
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連載
鹿児島のホームレス支援と行政の現状
そして「新しい公共」とは(4)
 最近,鹿児島市生活と健康を守る会(以下、生健会)との交流で知ったことであるが、現在の森市長になってから、事務の電子化に伴い、市役所1Fのカウンターに申請書を設置していたのを廃止して、3Fで「まず相談ありき」という姿勢になったという。生健会によれば「申請書は渡すが、制度説明と称して、申請を断念させる」例もある。
 2006年9月には、パーキンソン病の60代男性が首吊り自殺した例もあり、それについての生健会との交渉に対して、市は当初「適切な対応だった」としていたが、後に「二度とあってはならない。まず保護が必要であった」と認めた。先に述べた、昨年はじめあたりからは、ほとんどの事例で、急迫扱い(第4条3項)により、申請から数日の内に保護開始決定がなされるようになったのには、こうした交渉の影響もあったのかもしれない。
 こうして様々な営為の積み重ねの上に現在があるということを、この稿を書くに当り、改めて確認できた次第である。
生活保護適用状況

 ちなみに、厚労省の鹿児島県における「ホームレス」への生活保護適用状況(2006年1月〜12月)によれば、
開始件数= 76件
廃止件数= 14件(18・4%)
継続件数= 62件(81・6%)
年令別
40歳未満= 11件(14・5%)
40〜49歳= 9件(11・8%)
50〜59歳=35件(46・1%)
60〜64歳= 7件(9・2%)
65歳以上= 14件(18・4%)
場所別
一般住宅= 2件(2・6%)
医療機関= 3件(3・9%)
その他= 71件(93・5%)
(「その他」は、通院、路上での保護で、保護開始時にまだアパート確保ができていなかった人、すべて、保護開始後、速やかにアパート移行している。)

廃止件数=14件の状況
失踪=2件(14・3%)
就労による収入増加=2件(14・3%)
就労以外による収入増加=5件(35・7%)
その他=5件(35・7%)
(その他は、転出等が考えられる)となっている。

人間としての生活のために

 しかし、生活保護制度は、あくまで最後のセーフティネットであり、「生存保護」という現状でしかなく、それが人間としての生活と結びつくのか疑問がある。生活保護を活用した自立のための施策の整備が必要になっているといえる。
 その必要に対して、国の「成長力底上げ戦略における就労支援戦略」や、稼動能力判定会議設置といった動きとも関係しているのであろうが、生活保護によるアパート入居後の行政による就労指導は鹿児島でも厳しくなっている。2002年の山口祐二氏の先の本誌報告でも、「ケースワーカーの度重なる指導や指示に対して嫌気がさし、アパートをそのままに所在不明となるケース」が挙げられているが、およそ不安定就労にしかあり就けない労働市場の現状にあって、行政は既存の民間営利企業に頼った「就労自立の指導」一辺倒のままである。これでは言わば営利企業の「買い叩き」の環境に曝されるしかない。こうして、たとえ一時的に生活保護から脱却したとしても、再び家賃滞納後行方不明になる人も増えている。(つづく)

堀之内洋一(NPO法人かごしまホームレス生活者支えあう会)
■連載(寄稿)

協同組合運動とは何か(6)
グラミン銀行について(1)

増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事)

現在の金融危機

 協同組合が「思想的な危機」をどう克服していくのかは、モンドラゴンの労働者協同組合運動で見てきましたが、さらに他の例を追っていきましょう。その前に、現在の金融実態を見ておきましょう。
 米国発の世界的金融危機が明らかにしたことは、リスクの高い債権を証券化する金融技術と、その債券の格付け会社と、モノラインと呼ばれるリスク保障会社の三位一体のリスク管理が幻想(詐術)であったことです。高い利益を求めて膨大な金が流れ、膨らむだけ膨らんで破裂したのです。最大利潤の飽くなき追求を本質とする私企業を従来は社会的に規制していました。しかし、新自由主義はその規制を緩和・撤廃してきたのです。投資銀行(証券会社)リーマンブラザーズや保険会社AIGの破綻はその象徴です。金融危機は実体経済へ波及し、信用収縮が広がっています。弱者である中小企業への貸し渋り・貸し剥がしが横行しているのです。


新たな提案

 グラミン銀行及び代表のムハマド・ユヌスの名は、2006年度ノーベル平和賞を受賞したことで一躍有名になりました。
 グラミン銀行は1983年にバングラディシュで創設されました。バングラディシュ人民共和国は1971年にパキスタンから独立、しかし、現在も貧困国の一つに数えられています。ユヌスは、バングラディシュ独立と共に、米国の大学での職を辞して、祖国の大学教授や政府経済局計画委員会副委員長につきます。しかし、洪水・干ばつ・台風などの自然災害や戦争によるインフラの破壊や避難民の発生、政府の混乱などによる現実の圧倒的な飢餓と貧困を前にして、具体的な村々の実態に見合った改善を考えていきました。
 最初、彼はジョブラ村の灌漑による農業生産性改善プログラムに関与します。農民協会を創設して、井戸と配水システムを作り、肥料・種子・農薬などを共同購入し、乾期にも収穫できるようにしました。生産性は改良され、地主たちは利益をあげました。
 しかし、収穫高が増えても村の最貧層の人々は利益を得なかったのです。土地を持たず、日雇い労働、籠や椅子などの工芸品作り、あるいは物乞いなどでかろうじて生計を立てていたのです。彼は救いのない貧困の実態を見続ける中で、ある女性に突き当たります。夫は日雇い労働で一日数十円を、彼女は素晴らしい工芸品を懸命に作って20円相当。その背景に、地元の高利貸しがいたのです。彼女は工芸品を作る材料費として現金が必要で高利貸しに金を借り、しかも、製品を安く買い上げられていたのです。ひとたび借金すると、少額であっても貧困から脱出できなくなります。ジョブラ村の42世帯が、この高利貸しの下で貧困に喘いでいたのです。しかも、その借金総額は3千円に満たなかったのです。
 ユヌスは、貧困対策のため数十億ドルを注ぎ込む政府の5か年開発プランに関与し、学生に教えてきました。しかし、飢えた人々が必要とする金額とのギャップに愕然とします。ここからマイクロクレジット(無担保少額融資)革命が始まります。
 差別を肯定する人は少ないでしょう。人は偶然にある人種・国家・階級・経済状態の下に生まれただけであり、そのことで苦しむべきでないはずです。しかし、世界の金融機関は担保や信用履歴や法的文書を求めます。金融システムの基底に〈貧乏人は信用に値しない〉が横たわっています。
(次号へつづく)
地方からの報告 ……………………6(継続26)
過疎化・高齢化の同時進行

野添憲治

土に埋める作物

 昨年の秋は、田畑や野山の成り物が豊作だった。不作だったブナの実をのぞき、あけび・クリ・クルミなどが沢山の実をつけた。わたしも何度か山に入り、野山の幸をいっぱい貰った。豊作の年は果実も大きいうえに、水分も多く甘さもある。人間の晩秋もこうだったらいいなと思った。
 田畑も米は豊作だったし、ネギ・大根・白菜なども、大きいうえに味がよかった。多くとれたので値下がり幅がおおきく、昨9月下旬に北海道を歩いた時は、広いキャベツ畑をブルドーザーが音をたてて走り、キャベツを土の下に埋めているのを見た時は胸がいたんだ。補償金が出るといっても、丹精を込めて作った作物が目の前でこうした処理をされると、元農民のわたしでさえ心が痛んだのだから、現農民の気持はもっと揺れたのではないだろうか。カネを手にすればいいというものではない。

寒風にゆれる柿

 畑の隅や屋敷に植えている柿も、枝が折れるのではないかと思うほど鈴成りの豊作だった。晩秋、色付いた柿が村々に点在している風景はとってもいい。わたしは大好きである。また、その柿を渋ぬきしたり、干柿にしたのはおいしい。降る雪をガラス窓越しに眺めながら食べると、ぐっと味はよくなる。
 秋田は11月下旬に初雪があり、12月初旬に2回目の雪が降った。柿は初雪のころにはほとんど取られ、枝が寒風に揺れていた。だが、ときどき鈴成りの柿がそのまま残っている木を見かける、強風が吹くころになるとカラスは姿を消すうえに、最近は小鳥も少なくなったので、柿は傷つけられることもなく残っている。2回目の雪降のころには熟して、そのまま食べられそうな色になっていた。
 小さな集まりで、その柿が話題になった。
「どうして取らないのかな、あのままにしておくと、落ちてしまうよな」
「家にいるのは年寄で、柿も取れないほど弱っているらしい」
「じゃ、隣近所に頼んだら」
「付き合いがないんじゃないの」
「ヘエ。東京みたいだな。じゃ、市役所に頼んだらどうだろう」
「そこまで市役所はやるかな」
 柿の話はここまでだったが、2回目の雪が降ったあとも、木に沢山の柿が残っているのをときどき見かけた。その全部が柿を取る気もなくなった年寄の住む家のものとは言えないが、気になった。高齢化と過疎が同時に進むとともに、「向こう三軒両隣」的な考えが消えてきているなかで、取りたくとも取れない柿が枝に残り、晩秋や初冬の山村風景に彩りを添えているのをどのように見たらいいのだろうか。また、そのような地域に住むわたしたちはどのようにしたらいいのだろうか。そういう柿を見たら取ってあげればいい、ということで片付く問題ではなさそうだ。その後は木に残っている柿を見るわたしの考えがかなり変わってきた。

地方の旅館事情

 それから約一週間後、わたしは広島県の安芸太田町に行った。この地にはアジア太平洋戦争のとき安野発電所をつくる工事に、360人の中国人が強制連行されてきた。約1年間で29人が死亡している。その取材に行ったのだが、広島市のバスセンターからバスを乗り継ぎ、約2時間程かかってようやく着いた。短い初冬の日がすっぽり暮れていた。町立図書館で資料を読んだあと、町内の旅館や民宿を聞いて電話をしたが、3軒ともいまはやっていないと断られた。最後の1軒が宿泊だけならいいと言うので、タクシーを頼んで行った。古く大きな旅館だった。夕食がないのでタクシーでスーパーへ買い物に行った。食堂も飲み屋も、いまは1軒もやっていなかった。通された部屋は、床の間が立派だった。昔はかなり使われた旅館だったのだろう。額に入った表彰状が20枚近く、部屋に飾られていた。お茶を持って1回、宿帳を持って1回、80歳を越していると思われる老婦人がべつべつに来たが、あとは旅館に住人がいないらしい。電気こたつに入って缶ビールを飲み、弁当を食べた。風呂の案内はなかったから、沸かしていないらしい。
 布団は次の間にあったので、部屋に運んで敷いた。寝ようとしたら、掛け布団と毛布の襟が汚れて黄色だった。押し入れを探したが、同じに汚れている。長い間、取り替えなかったのだろう。布団に入るのを諦め、電気こたつに入って寝た。座布団を二つに折り、もっているタオルをかけて枕にした。
 朝食はと聞くのでお願いした。翌朝呼びに来たので居間に行くと、温かいご飯と味噌汁、アジの干物とノリ、漬け物がでた。長く保存していたらしく、干物は匂いがしたし、ノリは湿っていた。温かいご飯と味噌汁はおいしかった。
 お礼を言って旅館を出ると、バスの停留所に急いだ。途中に町役場の掲示板があり、講演会の案内が貼られていた。演題は「過疎からの脱却」で、講演者は京都の大学の先生だった。
 午前8時、ようやく朝日がさしてきた。


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