第8号(2009/2/1)●別紙
HOMEへ

Hasta la Victoria Siempre!
アスタ・ラ・ビクトリア・シエンプレ!
(永遠なる勝利の日まで!)

ゲバラ生誕80周年、キューバ革命50周年記念集会
■12月7日 東京水道橋 水道会館
■主催:キューバ連帯の会 後援:キューバ大使館


伊藤千尋
いとう・ちひろ

朝日新聞社中南米特派員、バルセロナ支局長、ロサンゼルス支局長を歴任し、中南米の事情に詳しい。講演内容はとても面白く、会場もおおいに盛り上がったが、あまりにも長いので割愛せざるを得なかった。


連載第2回

民営化とコカ戦争
●解放の神学
 ペルー、エクアドル。エクアドルの大統領となったコレアは、ベネズエラのチャベス大統領がブッシュを「悪魔」と呼んだと聞いて「ブッシュを悪魔になぞらえるなんて悪魔に失礼だ」と言った。これほどに南米は変わってしまった。パラグアイでは今年5月に反米派カトリックの神父が大統領に当選した。中米ニカラグアのサンディニスタ左翼政権にもカトリック神父が3人いた。彼らは「解放の神学」派で、世の中の不正、不平等を正すためにキリストは来たという教義を持っている。ブラジルのスラム改善運動の先頭にも神父がいる。ニカラグアの下町の教会では若者がギターを鳴らしながらサンディニスタ革命の歌を唱う。これが「賛美歌」。次に神父が説教をする。「ニカラグアでは内戦が起こっている。それはアメリカ帝国主義が我が国に軍隊を送ってきたからだ!」ミサのあと歌うのが「ウィシャルオーバーカム」。
 サンディニスタ政権の三人の閣僚神父に対してローマ法王庁から「神父をやめるか閣僚をやめろ」と通達があった。私は教育相カルデナス神父の記者会見を一番前で聞いていた。彼はぼろぼろと涙を流して言った。「私は社会がよくなるように人生を賭けてきた。私は民衆を捨てることはできない」と言って法王庁の通達をけった。

●民営化と水戦争
 20年前にはほとんど事独裁政権だった。なぜこうなったのか、しかも一斉に。90年代の中南米地域は全てアメリカべったり政権だった。それは91年のソ連崩壊後、世界中で唯一の超大国アメリカに頼るしかないと考えたからだった。そのアメリカべったり政権が何をやったか。民営化、リストラ、外資導入、緊縮財政。どこかで聞いた話ですね。つまりみんな「小泉政権」だった。ところが南米はとことん民営化した。
 ボリビアでは民営化省まで作って民営化を進めた。例えば水道局を競売にかけた。すると資金力のあるアメリカ系企業が落札。その日から水道料金は3倍になった。貧乏人は金持ちの3分の1しか飲まなくていいというわけにはいかない。ボリビア各地で5万人、10万人規模の集会、デモが起こった。その高まりがあまりにも大きいので「水戦争」と呼ばれ、暴動への発展を危惧した政府が民営化を撤回した。これで民衆は「起ちあがり行動すれば変革できる」と学んだ。
 「ガス戦争」というのもあった。ボリビアには天然ガスが豊富に出るが、当時の政府はアメリカに破格値で売っていた。アメリカのご機嫌取りであり、アメリカ企業側の圧力もあった。関係者の懐にリベートも入った。これに対してボリビア国民の財産である天然資源を安く売り渡すのは売国行為だと言って起ちあがった。これが「ガス戦争」。

●コカ戦争が生んだ大統領
戦争があった。コカはボリビア人にとってお茶のようなもの。これには効用がある。首都のラパスは標高3800メートル、空港は4000メートルある。飛行機は普通、滑走路におりてしばらくすると止まるが、ボリビアではフラップを下げても空気が薄いから止まらない。どこまでも行ってしまう。そういう空気の薄いところでコカ茶は高山病の症状を和らげる効用がある。だからボリビアの人々はコカ茶をよく飲む。ところがコカの葉に化学処理を施すとコカインになる。コカインを作るために密輸業者がコロンビアに持っていく。そこで作られた麻薬でアメリカの若者たちが蝕まれる。アメリカは「コカのせいだ、ボリビア、お前が悪い」という。アメリカの人が買うから麻薬になるのであって、ボリビアの人は何もしていない。麻薬産業があるのはコロンビアと米国ですよ。
 それなのにアメリカは当時のボリビア政権にコカ畑の撲滅を命令した。政府は軍隊を繰り出し、火炎放射器でコカ畑を焼き払うわけです。しかし火炎放射器では効率が悪く、焼き払うより育つ方が早い。そこでアメリカは空軍を使って上空から枯れ葉剤を撒き、さらにはナパーム弾を投下していった。ベトナム戦争の再現です。ボリビアの人々は怒りますよ。例えば米軍が三沢基地から飛び立って宇治と静岡の茶畑にナパーム弾を落としたら我々は怒るでしょう?当然怒る。そんな感じですよ。このボリビア人の怒りから集会、デモが生まれました。そのデモの先頭に立っていたのがボリビア・コカ生産組合組合長のエボ・モラレス。いまの大統領です。歴とした農民、しかも先住民。大統領就任式では右手を挙げて宣誓するものですが、モラレスは左手でこぶしを突き上げ、「この闘いはゲバラに続くものだ」と宣誓した。(続く)

グラムシを学ぶ

「知の悲観主義、意志の楽観主義」

片桐 薫

片桐薫 著
『グラムシ「獄中ノート」解読』
こぶし書房四六判222ページ
定価2100円

 イタリアでは1937年に亡くなったアントニオ・グラムシを追悼して、10年毎に大規模な国際研究集会が開催されてきた。2007年も没後70年を記念して、イタリアをはじめ南米、日本など世界の各地で記念の研究集会が開かれた。それは20世紀後半の歴史的激動のなか、同時代の思想家たちのほとんどがアカデミーのゲットーに閉じこめられているとき、グラムシはヨーロッパ共産主義運動よりも生きながらえていることを示すものだった。

グラムシのモットー
 このような結果をもたらしている原因は何か――。いろいろあげられるだろうが、私は、彼が好んでもちいたモットー=「知の悲観主義、意志の楽観主義」とのかかわりをあげる。
 そこには、幼少時の三重の深刻な創傷体験を負いながら、「自己を確立」し多面的・知的な才能を開花させていった彼の指向性にあった。彼の創傷体験の第一は、「本土から見捨てられた」島サルディーニャに生まれ育ったこと、第二は、父親の投獄で貧困生活を余儀なくされたこと、そして第三は、幼少時の脊椎カリエスがもとで生涯の身障者となったことだった。こうした幼少期の重層する創傷経験を負いながら、彼は、家族関係や専制・友人関係などとの屈折した感情の複雑な関係やさまざまな逆境条件のもと、中断することのない前向きの挑戦をつうじて飛翔していった。
 それだけではない。1917年のロシア革命の勃発に「真の歴史」の始まりと胸をおどらせたのもつかの間、イタリアにおける革命運動は敗北し、ファシズム独裁はその抑圧の度を強め、歴史の歯車は逆回転していった。そうしたなかで彼自身、逮捕され流刑の宣告を受け、「大海の小石のように消える」覚悟さえしなければならなかった。さらにスターリン的ソ連体制、コミンテルンの新方針およびそれに従っていったイタリア共産党政治局多数派との意見の創意による獄中の同志たちからの孤立、しかも絶望的に悪化してゆく健康状態そして音信の途絶えがちな妻との離婚も考えるようになっていった。

獄中でひとり探ったもの
 だが、彼の真面目はここから先だった。それは、現実からの逃避でも、「マルクス主義」の公式に「処方箋」を探し求めることでもなかった。それは幼少時代から自らの創傷体験と取り組むことで鍛えられた強靱な意志のちからによって、時代の根本問題にたじろぐことなく真っ正面から立ち向かおうとする精神であり姿勢だった。彼は弟カルロにこう書き送っている。「僕は知の悲観主義者であり、意志の楽観主義者です。僕の精神状態は、この二つの感情を総合し、諸々の困難を乗りこえてきました」。
 それは「『客観的』に与えられているものを『主観的』たらしめようとする」工場内における労働者の闘争と同質のものだった。だが現実は、同意のない権力の圧力と、大衆の側からのイニシアティブの欠如等々で充満しているように見える。彼は視点を変えることによって、大衆が国家と出会い、その関係は従来とは比べものにならないほど深くかつ広範なものとなり、しかもそのなかで大衆は国家的基盤においてますます直接的な位置を占めるようになっているという事実も同時にとらえた。つまり、政治から疎外されながらも、新しい次元の政治的・経済的・文化的闘争という、精神の主体性でもって逆に押し返してゆく大衆の強靱な「人間主義」の時代の到来を見た。こうして彼は、独り獄中で、20年代後半から30年代にかけて歴史的転換の可能性を探っていったのである。

投機・信用資本主義の原理を考える(上)

榎原 均(えばら・ひとし)

社会運動家。
新著『モモと考える時間とお金の秘密』
2600円+税

 これは、昨年11月の東京におけるアソシエ21労働講座で、「世界金融恐慌と労働者の闘い」をテーマに、講師の榎原均さんが話されたものの一部です。ここでは、新たな理論的問題提起をすると共に、共同して研究するためのプランも提起され、今後の共同研究への参画を呼びかけています。世界信用・金融恐慌の勃発が、今後の革命運動にとって、マルクスの資本主義批判の復権と新たな理論的深化を不可避としています。その問題に応える、一つの問題提起として、この報告を取り上げました。コモンズ編集部

はじめに


 07年の夏にアメリカのサブプライム問題が、ヨーロッパまで波及して、これは世界恐慌になるということで、僕らは、生きているうちにソ連の崩壊という歴史的事件を目撃し、のみならず世界恐慌まで体験できて、すごいことです。
 実は、僕は七年間ほど監獄に入っていまして、出てきた時に信用論の研究会を京都で行いました。その時から基本的に現在の経済は、現実資本と架空資本という言葉が今では常識になってしまいましたが、どう見ても架空資本のほうが現実資本に勝ってしまう事態があるのではないかと気づきまして、その時以来、このへんのところを信用論の研究としてまとめたいと思っていました。08年になって、いよいよ恐慌がきたということで、これまで考えていたことが、ぱっと結びまして、それで書き下ろしたというのがこの『ASSB』誌に載せています「投機・信用資本主義の原理」です。それでは、「信用資本とは何か」というところから始めたいと思います。

1.信用資本とは何か


 「信用資本」という言葉については、マルクスは『資本論』第三巻第5編利子生み資本論の第32章のなかで述べています。それはどういうことかというと、他人のお金を使って投機している資本のことで、現在なら、たとえばミューチャルファンドやヘッジファンドといったたぐいのものを、マルクスは信用資本と述べています。利子生み資本というのは、マルクスによれば、貨幣そして資本が商品化したというのがその本質です。
 お渡ししましたA4のプリントにあります『資本論』全三巻の目次を見ていただきたいのです。そのなかの第一部はご存知のように商品から始まるのですが、その商品から貨幣が生じると、その貨幣が資本に転化し、そしてその資本が絶対的剰余価値の生産、そして相対的剰余価値の生産という形で剰余価値を生産し、一つの循環をなしている。その循環が、流通があり、その総過程がありというふうになってまして、その総過程のところで資本の商品化が出来て、それが第三部第五編「利子生み資本」で述べられていることですね。そして、その利子生み資本が架空資本化していくという次の運動をするんです。僕はこの20年間資本論体系の延長上で、虚の経済である架空資本のほうが、実の経済を滅ぼしてしまうような力関係がどうして生まれるのか?ということを一生懸命に考えていたのですけども、10年前ぐらいにそのように考えていてはダメじゃないかと考えました。むしろ原理としても新しいものをつくっていかないと今の経済の状態は解けないのじゃないかと考えたのです。それで、信用資本と言う概念規定を資本論も使っているのでそこから着想したのです。信用資本と言うのは何か?ということですけども、いまの金融市場でのプレイヤーは、銀行、証券会社、年金基金、保険会社、投資ファンド、ヘッジファンドですね。彼らが経済に対して大きな影響力をもっているということですね。これらの資本家は他人のお金を現実資本に投資するのではなく、金融資産の売買に向けることで、投機資本と化しています。

●現在の資本主義について僕の新しい提案
 普通は金融資本というのはお金をファイナンスしてあげるということですから、経営したいけれどもお金がないという資本家にお金を貸して上げて、借りた人が事業家としてやっていくというのが金融ですけども、そうではなくて人から集めて借りたお金で投機をして儲けていくというパターンですね。これが、主流になってしまった資本主義を、投機・信用資本主義と名づけようというのが僕の提案です。
 「マルクスは他人のお金で投機を行う資本、投機で資本蓄積を行う資本を『信用資本』と呼んだ」、これにはバイアスがかかっています。マルクスは「信用資本」と言う言葉を使いましたけども、他人の資本でやっているということは言っているのですけども、投機で資本蓄積を行うということまでは言っていない。でもそこまで行かなければいけないのではないかと思うのです。
 「彼らが売買しているものは、金融資産(株式、社債、国債、消費者の債務証書―サブプライムローンがそうですね―外国為替など)」ですけども、これらの金融資産というものは一般商品に比べて性格が違うのですね。例えば、GMがピンチで国家にお金をカンパしろと言っていますけども、GMが作った自動車は商品交換によって消費者の手に渡りますが、その時には等価の交換が成立しています。同じ商品でも金融商品の本質が何かといったら、将来の利益に対する請求権なんですね。株式がそうですね。株式会社を作って株主になっているということは、その会社が将来に上げる利益に対する配当を受け取れるということですね。その配当が定期的に入ってくると見立てたら、それを利子と看做して資本還元することで金融資産の価値、価格が決まっていくという原理があるんですけども、だから、金融資産の価値の実体は労働ではないということですよね。いまから20年前ぐらいに価値の実体は労働ではない、という説が流行ったのですけども、よく考えたら、すでにその時に金融資産の取引高のほうが一般商品の取引高よりも多かった。その実態に幻惑されて、価値の実体が労働ではないと言うのですね。しかし一般商品の価値の実体は労働であるわけです。ケインズでもそうみています。実際みんなサブプライムで損したものだから、どこもお金お金と言っていて、しかし、金融資産の価値の実体は何もない、架空ですね。だからこんなに高かったと思ったらこんなに安くなって、株式時価総額が何兆ドルと減ったというのですけどが……減ってどこへいったんや……と思います。株価が乱高下することでダメージは実の経済に出るが、実の経済がすぐに止まるというものでもない。その意味では相対的に関係のない世界ですよね。そんなところをどう原理的に位置づけるか?ということで、架空資本の本質は、「利子生み資本の形態すらとらない」、ということです。これが新しい提案です。

●利子生み資本とは
 「利子生み資本」というのは、先ほど説明しましたように、お金は持たないけれども事業を行いたいという機能資本家が、お金は持っているけれど事業は自分ではやりたくない貨幣資本家からお金を借りるという時の貸借関係を、貨幣の商品化とか、資本の商品化と名づけて、借りたお金で事業をやって利子を払うという形で循環する資本を、マルクスは利子生み資本と名づけた。これが利子生み資本の概念です。金融資産たとえば株で、最初その株が売り出されたとき買えば、その資金は現実資本に投下されている。ところがその株が高くなったからといって転売され流通してゆくその時の転売される株は、金融資産ではありますけれども基本的には架空資本であるとマルクスが言っているし、皆さんそう言うわけです。なんで架空と言うのかはっきりしなかったのですけども、それは利子生み資本という形すらとっていないという意味で架空だと僕は解釈しました。それが僕の新しい提案です。それが妥当かどうかということをここで論議していきたい。

●マルクスはどう分析しているか
 
マルクスが資本論で次のように言っているのでちょっと読み上げます。
「貨幣資本が存在する形態が、ただ貨幣の形態だけだと仮定してもこの貨幣資本の大きな一部分は、つねに必然的に単に架空なものである。すなわち価値への権限である。……しかし、それが貨幣資本に転化して、同じ貨幣が繰り返し貨幣資本を表す限りでは、明らかに、それはただ一つの点で金属貨幣として存在するだけであって、他のすべての点では、それはただ資本への請求権と言う形で存在するだけである。これらの請求権の蓄積は、前提によれば、現実の蓄積から、すなわち商品資本等々の価値が貨幣に転化することから生じる。とはいえ、これらの請求権そのものの蓄積は、それの源泉である現実の蓄積とも違うし、貨幣の貸出によって媒介される将来の蓄積(生産過程)とも異なるのである。」(『資本論』第三巻、原典、旧版553〜4、全集版524〜5頁、引用はマルクスの手稿で訳文は大谷訳『経済志林』64巻4号、269頁)
 このように言っているから架空資本は利子生み資本とは違うと言っていると読めます。僕の言葉で翻訳したらね。利子生み資本の形というのはいったん物を作るために生産に投下されて、回収されるという現実資本の循環を経ている、そういうのが利子生み資本ですけども、そういう経路を土台として、架空資本と言う新しい資本の形を確立して、現実の蓄積とは異なる領域で徘徊している。(共産主義が徘徊したという奴ですね。いまや架空資本が徘徊している。)(続く)


HOMEトップへお問い合わせプライバシー・ポリシー
革命21 Copyright (c)2008 All Rights Reserved