|
増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事) |
●何をなすべきか
この20〜30年間、世界を席巻した新自由主義・市場原理主義・グロバリゼーションという世界経済の仕組みや経済政策あるいはイデオロギーが、08年9月に端を発した金融恐慌(実体経済にも波及したグローバル恐慌へと拡大)を前にして、存亡の危機に立たされています。これは、資本制生産様式(資本主義)に内在する本質的危機の現われと考えられます。
現在の支配的な資本のあり方は、多国籍企業形態をとります。世界をまたにかけて最大利潤を獲得するために、世界や各国の経済の仕組みが作られていきます。
この仕組みによって貧困や格差が拡大し、戦争が各地で勃発し、そして、恐慌が世界を覆っているのです。世界経済建て直しと称して、膨大な国家資金を注ぎ込んで巨大な金融業や自動車産業等を支えようとしていますが、立て直すべきは多国籍企業なのでしょうか。
●ユヌスの問い
前号で言及したグラミン銀行のユヌス総裁は、元々経済学者でした。彼は、貧困などの社会問題を解決するために何が必要かと問いました。自由市場は、むしろ事態を悪化させる。政府か。しかし、ソ連の統制経済の崩壊を言わずとも、各国政府の介入の成功と失敗の両方を見つつ、政府のアプローチが有効であるのなら、現在の社会問題はもっと軽減されているだろうと言う。政府への不満から、非営利組織(NPO)に多くの人々が参加するが、NPOの基礎である寄付の限界を指摘する。大規模な国際機関、特に世界銀行は貧困の排除を明示しているが、開発エリート主導の経済成長路線はまるで成果がない。企業の社会的責任(CSR)が大きな潮流になってきたのは隔世の感がある。しかし、企業は利潤追求の範囲内でという制約を超えることはできない。
さて、ユヌスは現実を見ます。資本主義は人間の本質が最大利益を追求することだけに関心のある一次元的存在であると規定しました。主流の自由市場主義理論では、自分のためだけに専念することが、資源の最も効率的な分配をし、社会や世界に貢献すると仮定しています。彼らは私的利益による競争が抑制されるから失敗すると考えます。しかし、この経済理論は現実と違う。
●ソーシャル・ビジネス
既存の企業は、利益最大化を目指すビジネスです。ソーシャル・ビジネスとは社会問題や環境問題を解決するために専念するビジネスであると、ユヌスは規定します。組織体制は基本的に同じ、目的・評価基準が違う。利益によってではなく、動機によって動く企業であり、世界の変革者として活動する。また、慈善事業ではない。事業にかかるコストは回収し、みずからのビジネスを持続可能なものとする。ソーシャル・ビジネスも利益を上げる。まず、投資家に元本を払い戻し、長期の社会的目標をサポートするために。
ソーシャル・ビジネスは抽象的な理念ではありません。人間は多元的な存在であり、私的利益よりも貧困や無知を根絶したいと思う若者は世界中にいる。しかし、その方法が判らないだけだと考えます。すでに、ソーシャル・ビジネスであるグラミン銀行やグラミンフォンは大企業です。あるいは、マイクロ・クレジット(ファイナンス)が世界全体で130カ国1万機関を数えていることから、ソーシャル・ビジネスが現実的に浸透していることが証明されているのです。
これと同質なのが協同組合です。しかし、ユヌスは協同組合事業に懐疑的です。おそらく、前述した国際協同組合同盟のデイドロー報告にあった、現実の協同組合運動の「思想的な危機」を見ているのだと思います。
●社会的経済とは
「近代」の特徴は、国際的取り決めとしての主権国家、市民革命による人権を基本に置いた市民社会、資本主義の確立・発展、国民国家の形成などにあります。18世紀から19世紀半ばにかけて、西ヨーロッパでは市民革命が各地で起こりました。当時の市民は商工業者であるブルジョアジーでしたが、この革命を支えたのが労働者・農民です。野蛮な資本主義に対抗するため、この時期に、労働組合、協同組合、アソシエーション(非営利組織)が発展するのです。消費協同組合や労働者協同組合、農業協同組合、共済組合、協同金融などが立ち上がってきました。
欧州連合では、社会的経済の組織は、社会的目的をもった自立組織であり、連帯と一人一票制を基礎とするメンバー参加を基本的な原則としています。具体的には、協同組合、共済組合、アソシエーションという法的形態を取っています。 中国人殉難烈士慰霊塔(足尾)
アジア・太平洋戦争の時に中国から日本へ強制連行した中国人は、「外務省報告書」によると約4万人である。捕虜や兎狩り作戦などで集めた人たちで、北は北海道から南は九州まで、135事業所で強制労働をさせられた。日本の敗戦で帰国するまでに死者6、838人、負傷者6、975人、不具廃疾者467人という悲劇を生んだ。しかも、送還された遺骨は約2、500柱で、残りの約4、500柱はいまだに日本の山野に放置されている。ひどい話だ。
1945年6月30日に秋田県大館市の花岡鉱山で起きた、中国人強制連行者たちが重労働や虐待に耐えかねて蜂起した「花岡事件」もその一つ。帰国した生存者が鹿島(当時の鹿島組)を相手取った訴訟は2000年に和解したものの、大きな禍根を残した。「なぜ中国人たちの意にそぐわない裁判の結果が出たのか」と考えているうちに、「他の134事業所ではどうなっているのだろうか」と思った。そしてわたしは、「中国人強制連行者の現場へ・慰霊と取材の旅」を計画した。中国人が働いた現場に行って小さな花束を供えて慰霊したあと、取材をかさねて記録を残そうと考えた。その時すでに66歳になっていたので、134事業所を歩き通せるという自信はなかった。
中国人が強制労働をさせられた135事業所を地域別に見ると、北海道がもっとも多く、58事業所、東北地方は9事業所、関東・中部・近畿地方が39事業所、中国・四国・九州地方が29事業所となっている。北海道や九州は炭坑が多く、関東・中部・近畿地方は発電所工事や、航空機の疎開工場地下施設工事が多い。それぞれ戦争と密接に関係している工事だった。働きざかりの日本人が兵役にとられて不足していたこれらの現場では、連行された朝鮮人や中国人が工事の先頭になって働かされた。
最初に行ったのが岩手県釜石市の日鉄鉱業釜石鉱業所だった。ここには1944年と翌年にかけて2回、計284人の中国人が連行され、123人が死亡している。2001年12月には電車で行き、市役所、教育委員会、図書館を廻って資料を集めた。2日目からは現場を歩き、関係者を訪ねて話を聞いた。しかし、行政にはその当時のことを知っている人がおらず、図書館にも資料がなく、関係者も死亡したり移転したりで、なかなか話を聞けなかった。釜石市には3日間いたが、慰霊も取材もかなり難しいことを知らされた。
それでも2002年から歩きはじめた。日本各地の山間部はよく歩いていたので、過疎地の交通事情は知っているつもりでいた。わたしは60歳になった時から運転免許を更新しなかったためレンタカーには乗れないので、電車やバスに頼っていた。しかし、北海道で早く閉山になった炭坑は人が住んでおらず、もちろんバスは走っていない。手入れをしない道は壊れたり、木々が茂って跡地がわからなくなっている所もあった。留萌市近くの空知鉱業天塩鉱跡に行った時は、タクシーの運転手もよく知らない道を走ったが、悪路で何度も引き返したり、間違ったりしてようやく行ったものの、帰ると料金が7万円近くになっていた。後で不足分を送ると言ってもダメと言われ、家に電話をして銀行送金をして貰い、確認されるまで事務所で「人質」となった。それからはタクシーのメーターが上がる音がする度に、心臓が締めつけられた。
今回の旅では事業所に着くと作業現場だけではなく、寺院や墓地なども調べた。まだ祖国に帰っていない約4、500柱を探したが、1柱も見つからなかった。しかし、北海道の室蘭市では564人が死亡したのに敗戦後の処理がずさんで全部を発掘せず、市民の証言で1954年に125体を発掘している。夏は海水浴客で賑わうその場所には、10年くらい前までは白い骨片が見えたという。また、別海町に建設された計根別飛行場では、滑走路の下へスプリング代わりに約100体近い死体を埋めたといわれ、1992年に発掘したが見つかっていない。広々とした牧場の中に残る滑走路を歩くと、捨てられたままになっている遺骨の泣く声が聞こえるように思えた。
全国の中国人連行者の働いた市町村では、どこでも部厚い立派な郷土史を出版していた。丹念にめくったが、朝鮮人・中国人連行のことを書いているのは3割くらいよりなかった。市町村の社会教育で取り上げている所もなかった。連行されて来た朝鮮人や中国人を見たという人も、地域から消えていた。
今年の1月に東京の東京華工管理事務所の跡をめぐり、足かけ9年にわたってようやく135事業所を歩き終わった。これからわたしがやることは、現場の現状と、現場を歩いて思ったことを、多くの人たちに伝えることだと思っている。日本のわたしたちがやり忘れているのは何かが、そこから見えてくると考えている。
|