全国の皆さんに、悲しいお知らせをしなければなりません。
全日建運輸連帯労組近畿地本副委員長として闘いの先頭にあった川村賢市さんが、4月30日早朝に、「脳出血」のために急逝されました。享年61歳。
大阪にて5月1日通夜、2日に告別式が行われ、川村さんの突然の逝去に驚き、駆けつけた多数の労働者、友人、知人が参列しました。告別式では、連帯労組近畿地本戸田委員長、辻元清美衆議院議員が弔辞を読み上げ、出棺時には連帯労組関西地区生コン支部の武建一委員長が参列の人々にお礼のことばを述べられました。
ガジュマルの樹のような党めざして
川村賢市さんは、関生労働運動・反戦平和運動の先頭に立ち続けてこられると同時に、労働者の自己解放による人類の解放のために、またこれを担うにふさわしい自前の思想・政治集団―革命党の結成を目指して奮闘されてきた労働者コミュニストでもありました。
とりわけ日本共産党を批判して離脱して以来、「党はもうコリゴリだ」という意見も強くある中で、権力弾圧に屈せず、関生労働運動をもっと階級的な労働運動に作りあげる《心張り棒》の必要、つまり資本主義社会を変革する立場に立った強固な意志力を持った思想・政治集団が必要だと早くから自覚され、2004年12月に、有志とともに《関生コミュニスト同志会》(関コミと通称)結成のため尽力され、その共同代表の一人となられたのです。
その後、ご承知のように、関コミの発した「労働者宣言」の呼びかけを契機に、全国的な労働者運動を基盤とする新党準備が始まり、昨年2008年5月の運動型新党《革命21準備会》の発足・公然化に至りました。川村さんは、昨年春に心臓発作で入院されてこの公然化総会には出席できませんでしたが、以来《革命21(準)》の運営委員として、いわば労組等活動と新党準備の「二足のわらじ」を履いて、闘いの先頭に立ち奮闘してこられたのです。
わたしたちは、この新年、川村さんから聞いておりました。
これから特に故郷である奄美・沖縄の闘いや元自衛官として自衛官とその家族の相談や交流・組織化のために力を尽したいと。
わたしたちは、遺影の前で、奥様から知らされました。
川村さんが心臓病を抱えながらその死の前日まで、殆ど休むことなく共闘関係の集会やデモ、会議、実行委員会に出ておられたことを。奥様が開いて見せた手帳は、連日、真っ黒に埋め尽くされていました。
そこに、川村さんの闘いへの強い意志を改めて見た想いでした。
これからという時に、かけがえのない同志を失い、本当に無念です。
川村さん、
貧苦の只中にある労働者民衆の自己解放と「協同組合型社会(アソシエーション)」への社会変革をめざし、貴方がたとえた「(沖縄の)ガジュマルの樹」のような運動型新党を、日本で初めて労働者が中心となって創成する闘いは、いよいよこれからです。
闘いの中に、共にあれ! 生田あい(革命21準備会事務局長)
川村さん、あまりに突然の逝去に驚き、悲しんでいます。
川村さんは、反戦平和・階級的労働運動の情熱の闘士でした。
生コン支部役員時代は、組織部や争議対策部の責任者として、抜群の戦闘精神を持って、関西地区生コン支部の組織発展の基礎を築き、その後トラック支部執行委員長、近畿地本副執行委員長を歴任して連帯ユニオンの労働運動の拡大深化を図ると共に、いわゆる労働運動以外の、市民運動、反戦平和運動、住民運動、在日外国人の様々な民族運動、種々の選挙闘争等々、極めて多彩な運動を支援し共闘を進める窓口・パイプ役として活躍されて来られました。
シンボルマークとなっている鼻ヒゲと細く優しい目、人なつっこい笑顔と情熱溢れる語り方。まさに「小さな体に大きな闘志」を持った幅広い活動家でした。
そして自衛隊出身者でもありました。
かつては自衛隊出身の体験を十分に活かせなかったもどかしさもあったのでしょう。
しかし、近年、自衛隊出身者の方々が反戦平和運動に積極的に参与する、その状況を見る中、ご自身も例えばイラク派兵反対の本人訴訟、通称「ゼニカネ訴訟」という極めてユニークな集団訴訟の呼びかけをして代表になったり、その事によって全国の反戦平和の方々とつながったりされました。
そして常に現職の自衛官やその家族との交流・連携に心を砕いて来られました。
ソマリア沖への自衛隊派兵がなされる状況の中、最近も新たな活動を立ち上げ、自衛隊とその家族の人達をつないだ反戦平和運動のための新たな機関紙を発行させたばかりでありました。
私は、「人の生きる姿勢は死に際しての処し方に凝縮される」ということを、川村さんのご逝去に際してつくづく感じさせられた。
心臓の病を抱えながら、しかしこまめに一所懸命に体力の増進保持をし、スポーツセンターに出かけられたのも、この、ライフワークとしての種々の運動を永く発展させる意志あればこそでありました。
そして急激な脳幹の破裂による、即死してもおかしくない状況の中で、「警察病院に連れていってくれ」という事をハッキリと語り、その病院においてはお医者さんが「本日中は絶対にもたない」と断言されたにも拘わらず、その後20時間も命を継続し、翌朝5時前まで生存を続けた事に、川村さんの運動に賭ける強い強い意志を、私は感じさせられました。
そしてまた川村さんは、「自分が死んだら、臓器は全て提供して人々に役立てよう」ということを常々ご夫婦で話し合ってこられ、臓器提供のドナーカードも作っておられました。
この急な、突然の危篤の、この非常事の中でも、奥様が川村さんの気持ちを活かしてカードを家に取りに帰り、臓器提供のために全力を尽くされた、この事実の中に、川村さんの「人々の役に立ちたい」という強い意志を、誰しもが感じさせられる次第であります。
私などは、まだそこに及んでおりません。
この御霊前にあるアイバンクからの感謝状は、その証のひとつであります。
最後の最後まで、労働者民衆の役に立つ生き方・死に方を貫いた川村さん、そして常に連れ沿ってこられた奥さん。
どの運動の場にも、私達が支援するリベラルや市民派のどの選挙や運動の中にも、川村さんご夫婦の姿が常にありました。その姿がみなさんに親しみと安心感を与えてくれました。
こんなご夫婦での活動は、滅多にあるものではないと思います。
さて、ひとつだけエピソードを言わせて下さい。
12〜13年前まで、川村さんは刺繍が裏地に入った背広を愛用されていました。
しかし市民運動との交流をつなげる中で、「別の業界」の人間と誤解されてはいけない、という気持だったのでしょうか、これをスッパリとやめられました。
私が時々、冗談半分に「あの刺繍入りの背広、また見せて下さいよ」と言うと、「もうあれは処分して無くなったよ」、と照れながら、苦笑いをしながら語っていた姿を、今でも思い出します。
川村さん、もうあの裏に刺繍が入った背広姿の川村さんを2度と見ることは出来ないのですね。
今、労働者民衆に害悪を与える政治経済が続く中、「安らかにお眠り下さい」と川村さんに言うことは出来ません。
川村さんは天国でも、運動のためにああしようこうしようと、いつものように手を振りかざしながら、情熱を持って語る「川村ラッパ」を吹き続けて下さい。
私達はそれを心の耳で聞きながら、反戦平和と階級的労働運動の拡大深化に邁進していきます。
川村さんの意志を必ずや立派に引き継いでいく事をお誓い申し上げます。
最後に、川村さんの風貌を見ると、私はラテン系の人々を思い起こします。
ラテンの中南米の地にあっては、倒れた同志の名前を集会の場で一人一人読み上げ、そこに参席している人達が「プレセンテ!」と唱和する習慣があるそうです。
「プレセンテ」という唱和は、「ここにいるよ。みんなと共にいるよ」、という意味だそうであります。
川村さん。
同志川村!
プレセンテ!
2009年5月2日
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星川 洋史(しないさせない戦争協力関西ネットワーク事務局長) |
川村さんと知り合ったのはいつの頃だろうか。あまりはっきりと覚えていない。その姿、格好が、私の頭の中にある労働組合の活動家とはあまりに違っているので驚いたことは覚えている。しょっちゅう付き合うようになったのは、全港湾(当時)の馬場徳夫さんや連帯労組の西山直洋さんらが、「ユニオンネットからは川村さんが代表に入るから」と、私に「しないさせない戦争協力関西ネットワーク」(シーサーネット)の事務局長になれと働きかけがあり、すったもんだの末にそうなってからのことだった。会議や交流会の後、二人だけの「交流会」もたまにはした。
私が出すシーサーネットの代表者や事務局員への相談や問い合わせのメールに、多くの人は返事をくれないのだが、川村さんと増田京子さんはたいてい応えてくれた。意見が違うときはそれをいい、多くの場合同意なのだがそのときはそれも伝えてくれた。川村さんは、メールは見るが意見を言うのは電話だった。
運動方針や政治問題では、私と川村さんは、当然だが、意見が違うこともあった。北朝鮮指導部やその方針の評価をめぐってはよく論争した。内ゲバ党派に関する対応でも違っていた。誤解のないように言えば、川村さんも革共同・関西派の諸君が出している自己批判はそのまま評価できるものではないという点では、私と一致していた。川村さんは、「ちゃんとした自己批判にさせるためにも意見を言う(交わす)べきだ」といい、私は「あれではそうする出発点とはいえない」と応えていた。
川村さんは、労働組合と市民運動が合流する「しないさせない戦争協力関西ネットワーク」の意義を大切にし、市民運動的課題のときにもよく足を運び、また労働組合にその課題を持ち込むことにも努力していた。市民運動の側からシーサーネットにかかわる私としては非常にありがたい存在だった。もちろん私だけの問題ではなく、市民運動全体として大きな存在を失った。デモのときも、デモ申請は私、総指揮は川村さんにお願いということが多かった。
われわれは、川村さんが市民運動や労働運動の課題として自衛隊・軍隊問題、とりわけ自衛隊兵士の権利の問題を取り上げることに努力してきた。私たちは、この川村さんの思いに充分応えられていないことを痛感している。とても、「安らかにお眠りください」などといえる運動状況ではない。「精一杯努力するよ」。
2009年5月22日
■1947年
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種子島で生まれ、徳之島で育つ。中学生の時に関西に。 |
■1975年
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永和商店(その後輸送部門が切り離され現在コーイキ輸送)入社 |
■1975年末■1976年
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組合を組織し公然化(21名)
直後、武建一委員長らの日本共産党の関生党組織に参加。 |
■1978〜84年
■1982年末
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日本共産党の「12・17赤旗声明」と関生支部への分裂攻撃と闘い500人近い関生労働者コミュニストと日本共産党より離脱。(この経過は武建一著『労働者の未来を語る』に詳しい) |
■1987〜89年■1996年〜■2004年12月
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有志と《関生コミュニスト同志会》結成。共同代表に。 |
■2008年5月
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運動型新党《革命21》準備会の発足・公然化。運営委員となる。 |
■2008年〜 |
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