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増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事) |
●当初の社会的経済
前号で「社会的経済」は長い歴史を持つことを指摘しました。近代は理念として基本的人権を有する個人を生み出しましたが、一方で、資本制生産様式・商品経済化があらゆる領域に広がってきた過程でもあります。生活の実態レベルでは、何の財産もセイフティーネットも持たない労働者や農民が過酷な搾取や収奪に喘いでいました。貧困と疾病と差別に閉じ込められていたのです。だからこそ、社会的弱者が相互扶助の観点から団結して組織を作っていったのです。イギリスでも日本でも、当初の労働組合は共済の機能から出発しています。
さて、この当時(19世紀のヨーロッパ)の社会的経済の担い手の源流は3つあります。1つはイギリスで、ロッジデールパイオニア組合を源流とする生活(消費)協同組合です(ロバート・オウエンやW・キングなど)。2つ目はフランスで、労働者協同組合や多様なアソシエーション(今で言うNPO)や共済組合や農協など(S・フーリエやF・ビュシェなど)。3つ目はドイツ・イタリアで、協同金融である信用協同組合として、農村金庫や庶民銀行(シュルツェやライファイゼンなど)が発展していきます。フランスではアソシエーション法が1901年に成立しています。社会的経済が認知され制度化されていったのです。
●社会的経済の変遷
19世紀後半から20世紀に入って、労働運動や労働者政党、社会主義運動が大きな潮流となります。社会権が確立され、労働法や社会保障法などが成立し、福祉国家を目指していきます。また、1917年にはロシアで社会主義革命が起き、ソ連が誕生します。
とりわけ、第2次世界大戦後は、「完全雇用を前提とし、失業保険、年金保険、国営保険サービス、家族手当、国民扶助などを体系化することで貧困の解消を国家の責任において行うこと」(イギリスのベバリッジ報告)に見られる様に、福祉国家が立ち上がり、ヨーロッパ各国の社会民主主義政権がこれを拡大していきました。この経済的基礎にケインズ政策がありました。大恐慌という資本主義の致命的矛盾を回避するため、国家は市場原理を規制し、公共事業(有効需要の創出)や所得再分配政策を積極的に展開し、経済を発展・安定化させながら、国民の生活水準をあげるというものでした。戦後の高度経済成長の背景でもあります(但し、ここでの議論は「北」の「南」に対する収奪やソ連への対抗という重要な側面には触れません)。
この高成長の波に、既存の社会的経済の担い手である協同組合や共済組合なども乗り、経済的政治的社会的地位を確固たるものにしたのです。しかし、1973年のオイルショックが流れを一変させます。
●サードセクター・連帯経済
経済成長は止まり財政赤字が拡大しました。福祉のための財源がないとされたのです。70年代、ヨーロッパはスタグフレーション(不況下での物価高)に見舞われます。この資本主義の危機打開が、サッチャーに代表される新自由主義路線であり、規制緩和・市場原理主義が徹底されるのです。79年サッチャー政権成立から、81年レーガン、82年中曽根と続きます。さらに、80年代末から90年初頭にかけて、東欧・ソ連などの社会主義諸国が崩壊します。各国で濃淡の違いはあれ、新自由主義が20〜30年間、世界を席巻するのです。
しかし、ヨーロッパには「福祉のコンセンサス」、福祉政策の推進は政府・企業・労働者の三者を利するという合意が定着しています。国家依存の福祉ではない、人々の主体の活性化を伴う社会的経済が見直されたのです。
また、別の表現として、第1セクターは国家や地方自治体が公共目的のために担う部分、第2セクターは営利企業が担う「私」の部分、第3セクターは社会的に有益な目的を実現する民主的な組織、協同組合・共済組合・アソシエーションが担う部分として位置づけています。日本で言う第3セクター(3セク)とは意味が違います。
さらに、既存の社会的経済の担い手に対する批判を含めた連帯経済という概念があります。 中国人・朝鮮人連行者が入坑して働いた小滝坑跡。「入厳禁」と書かれている。
最盛期には「東洋一の銅山」と呼ばれ、アジア太平洋戦争の時は「超重点鉱山」に指定された栃木県の足尾銅山(現日光市足尾町)。その反映を支えた大煙突から出るガスで周囲の山野は荒れ、裸地の土砂が流れて渡良瀬川はたびたび大洪水を起こし、その被害をまともに受けた沿岸の農民たちの惨状と、被害農民を支えて闘った田中正造の歴史がある。その足尾銅山に朝鮮人が強制連行され、「朝鮮人は死ぬために日本へ連れてこられたようなものだ」と言われるほどの過酷な扱いを受けた歴史もある。古河鉱業足尾鉱業所へ最初に朝鮮人が連行されたのは1940年で、それから敗戦までに2416人が来ている。朝鮮人高原木収容所に約800人、現在の中才浄水場の渡良瀬川向かいの収容所に約800人。庚申川上流の小滝集落近くの収容所に約800人がそれぞれ収容されていた。「強制連行された朝鮮人労働者の中には16歳未満の少年や40歳以上の中・高年齢の者も含まれていたが、その大部分は20歳以上40歳未満の働き盛りの青壮年であり、その中核となったのは20歳以上30歳未満の人々であった。(『遥かかなるアリランの故郷よ』)
朝鮮人が働いた職種はさまざまだが、その多くが重労働で危険度の高い坑内労働だった。内車夫49・7%、進鑿夫2・3%、支柱夫6・7%、臨時夫5・5%、線路夫4・5%で、全体の70%を超える。もちろん外で働いた鉄索夫や外車夫、運搬夫なども危険な仕事であった。
しかし、危険な現場で働かせながら、食事は粗末なうえに量が少なかった。山菜の中に米粒がうかんでいるような主食だったが量が少なく、食べ終わっても空腹だったという。昼食は朝に握り飯を渡されたが、朝のうちに食べる人が多かった。昼は水を飲んで空腹に耐えた。「朝鮮人は腐った芋でも何でも食べていた」という日本人の証言が残っているが、それは空腹だったからだ。それで危険な重労働をするので、負傷者が続出した。怪我をすると朝鮮人も小滝病院に運ばれたが、足が骨折していても医者は「何ともない」とそのまま帰した。それが不満で治療を申し出ると「足を切断する」と言った。「切らないでくれ」と頼むと、「切った方が治りが早い」と言われ、骨折なのに手足を切断された人が何人もいたという。しかも、朝鮮人は怪我や病気で仕事を休むと、食事が与えられなかった。
アジア太平洋戦争も開戦した時は勝っていたが、ミッドウェー海戦の惨敗以後は戦局が悪化していき、南方から日本本土に運ぼうとしていた重要戦略物資を摘んだ輸送船が米潜水艦や飛行機で攻撃されて輸送が途絶えるようになり、国内生産が急務となった。超重点鉱山の足尾銅山は特別増産期間が設けられ、天皇の侍従や商工大臣まで来山し、鉱夫を督励した。「かくして全山の士気はますます昂められ、夜に日を継ぐ文字どおりの24時間操業が開始された。12時間勤務の2交代制を敷いたが、疲労のため欠番も多くなり、朝早く入坑して夜中の2、3時に退抗する」(『創業100年史』)ほど酷使された。
長時間の労働と食料不足、虐待などに我慢できない朝鮮人の多くが逃亡した。「1940年8月から1945年5月までの間に中途退職した朝鮮人は1134人(被連行者総数の46・9%)、このうち逃亡者は839人(34・7%)であった」(『遥かなるアリランの故郷よ』)。足尾銅山の小滝側の群馬県境は絶壁で、冬は凍るという悪条件のなかでも逃亡が続出した。「逃亡して捕まって戻ってきたら、片輪になるか死ぬかどっちか」(鄭雲模)だった。「捕まるとえらい仕打ちをうけ、『アイゴー、アイゴー』のさけびをよく耳にした」(『町民がつづる足尾の百年』)という。逃亡したものの、庚申山で凍死する人もでた。
朝鮮人に対する私刑(リンチ)は凄惨だった。「足を負傷して坑内に入れないでいると、電線を足につけたりして(リンチを加えたり)。よく納鉱場のわきにつれていって、ビューン、ビューンとむちで打つの。大勢集めたところで」(『足尾に生きた人々』)と小滝の主婦は言っている。しかもリンチを加える際に、「てめえら半島人が一匹や二匹くたばったって何ともねえ。金三銭(葉書代)もあれば何千何万人も引っ張ってくることができるんだ」と会社の労務係が叫んだという。
足尾銅山では坑内事故も多発している。「坑内で事故にあってかつぎこまれた人が多かった。足の切断なども多かった。死んだ人も多い」(趙観變)。死んだ人は近くの火葬場で処理されたが、遺骨はどうなったかわからないという。朝鮮人の死者の数が73人とはっきりするのは敗戦後52年目のことで、「死因は、肺炎などの病死以外に頭蓋骨骨折など事故死とみられるものが目立っ」(下野新聞・1997年8月6日)たそうだ。「栄養失調でたおれる者が多く、大根みたいに足のピーンとした死体がリヤカーで運ばれた」(『足尾銅山労働運動史』)という。
ノンフィクション作家の林えいだいさんが足尾銅山へ行った時のことを、「小滝で亡くなった朝鮮人は、みんな道路やわきの畑の中に埋葬され、案内されて埋葬した場所に行くと、大きな土まんじゅうが5、6個盛り上がっていた」(『地図にないコリアン峠』)という。のちに筆者も足尾銅山に行き、浅春の朝にその道を歩いたが、土饅頭は見えなくなっていた。
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