土地から引き剥がされる農民 ■大野和興 著
■「食大乱の時代」
■七つ森書館
■1890円(税込)
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グローバル資本主義のもとで、
「農民の農業の解体」が進行している。世界のあらゆるところで同時に起こっているところに、現代的な特徴を見ることが出来る。ではそれは具体的にどういう形をとって進行しているのか。日本とアジアを舞台に見ていく。
ここでいう「農民の農業の解体」というのは、言葉を変えていえば「農民という階層の解体ないし消滅」ということである。それは二つの側面で進行している。一つは土地問題だ。日本では7月の国会で農地法改正が成立した。農地法とはどういう法律なのか。戦後、日本では財閥と地主制を解体することから日本の民主化がはじまるということで、農村では地主制を解体し、地主が持っている土地を農民が分け合うという農地改革が進んだ。その結果耕し農民自身が土地を所有する自作農体制が生まれた。戦前の小作争議のスローガンだった「耕すものに土地を」という農民解放が実現したといえる。
農地法はこの農地改革の成果である農民的土地所有制度を守るために作られた法律なのだが、今回の法改正はこの最大の理念を取り払うことを目的としたものであった。この結果、農地利用への資本の参入は原則自由化状態となった。
これは世界で起こっていることの日本的なあらわれに過ぎない。もっと大規模な形で世界各地で起こっている。この間FAOが警告を発していて、イタリアのG8でも問題になったのが、途上国の農地がどんどん先進国に基盤をおく多国籍企業や産油国、韓国、中国などに代表される国家に買われているという事実がある。将来必ず食料争奪戦の時代がくるといわれている。それに備えて土地をまず獲得しておくという段階に入ってきているのだ。
さらに深刻なのはゴムやバイオエタノール、バイオディーゼルをとるための商品作物の栽培が世界的に進み、それらの作物が作付けされた膨大な農地が、食品やエネルギー、化学会社などの管理下に組み込まれているという事実である。昨年から今年にかけ、中国雲南―タイ―ラオスとメコン川を下りながら村を訪ねる旅を続けている。そこで見る光景はある意味で象徴的である。例えばラオスでは、山間地帯は少数民族による焼き畑が続けられている。山を焼いて陸稲を植えるのだが、今はそこにゴムが植えられている。その結果、これまで米を自給できていた地域の人々が食べる米が足りなくなり、中国から買っている。代わりにゴムは中国企業の手で中国に運ばれる。
これはほんの一例に過ぎない。本来そこに住む人たちの食糧を作るはずの土地、つまり地域の資源が、食糧ではなく大企業が市場を支配している作物に入れ替わってきている。その後何が起こるか。ゴムではすでに結果が出ている。ついこの間まで高値で買いとられていたゴムの樹液は、2009年金融危機とその後の経済恐慌の中で大暴落をし、投資をしてゴム作付けに転換した農民たちは売ることも出来なければ食べることも出来ないで、でかい豆腐のような樹液の塊を抱えて困り果てている。彼らの土地はそのうち借金のかたに企業に取り上げられるだろうことが容易に想像できる。
こうしていま世界で、そして日本で、農業の主役の交代が進もうとしている。農民という社会階層が解体し、農業を担う主体は世界市場で勝負できる企業群にとって代わる、そんな時代が始まっているのだ。社会のありよう、さらには生命の再生産をつかさどる食のあり方から見て、そんなことで本当にいいのか、が改めて問われなければならないだろう。
なぜ富と貧困は広がるのか ■後藤道夫・木下武男 著
■「なぜ富と貧困は広がるのか」
■旬報社
■1470円(税込)
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就業構造基本調査を観ると10年間で貧困家庭が220万世帯増えています。日本全体の世帯数は5千万世帯ですが、その中の20%強が貧困世帯です。勤労世帯だけで計算すると20%弱になります。
97年の勤労貧困世帯の貧困率は12%ちょっとでした。実はワーキングプアー世帯はここ十数年の日本の貧困の中心で、構造改革のあと貧困の中心になったわけではないのです。ただ、その比率がここ10年間で2倍に増加した。
厚生省の国民生活基礎調査で1996年の額面平均年収と2007年とを比べますと、90万下がっております。常識では考えられない下がり方です。
貧困急増の理由は3つです。
1つ目は、非正規が増えた。98年から500万人増えています。急増したのは派遣・契約・その他。フルタイム率が高く、それで生計をまかなっている。昔は主婦パートと学生アルバイトが主力だった。2つ目は正規雇用の中の低所得部分が大幅に増えた。年収300万未満の男性の正規雇用が97年から07年の10年間で166万人から244万人に増えています。3番目の理由は、失業者が大幅に増えたということです。失業者の中で失業保険給付比率が大幅に下がりました。現在5人にひとりです。
他方、日本の企業は2002年の3月から2008年の9月の約6年半でトヨタなど製造業の巨大16社の内部留保金が2倍、33兆6千億円になりました。これを切り崩さないで去年の秋以降の正規切り・非正規切りは行われたわけです。
経営陣はたいへん居丈高です。ソニーの中鉢さんは去年の1万6千人のリストラ発表のあと、雇用より利益を優先すると明言しています。日本の経営者は長期にわたってこういう事は言いませんでした。2000年ころトヨタ会長だった奥田さんは「経営者は従業員の首を切るなら自分の腹を切れ」と言ったんですね。そのスタイルが明らかに崩れました。きっかけは2001年後半の大リストラです。500人以上の規模の企業の正規雇用が100万人くらい減っている。
雇用とは
雇用とは、指揮命令にしたがって労働する力と、賃金とを交換することで、雇用主のほうは賃金と引き換えに指揮命令して労働をさせる権利を得る。労働者の方は指揮命令にしたがって労働する義務を負う。
労働力が商品として売られる時に重要なのは、時間決めで売買されることです。時間決めではなく全部売っちゃうと奴隷、家畜の状態。売る主体が消滅します。
「労働力商品の売買」は「労働の売買」と同じではない。労働力商品を買っても、その時間何もやらせないのも自由。しかし労働力の売買は成立しております。
労働力商品は建物、機械、原料、エネルギー等と同じ必要経費分で儲け分ではない。労働力商品の代金っていうのは農民にとっての家畜のエサ代です。
労働力商品を売買して経営側は買った労働力を使う。つまり働かせる。その成果は全部経営者のものになる。あらかじめ賃金を払ってありますから。
じゃあ「利潤」はどこから生まれるのか。労働力商品1日分を消費して生み出される成果は雇用主のものですね。労働力商品を買うお金というのは、労働力商品1日分を再生産する、つまり次の日の朝、働ける状態で工場の門の前で立っていることができるというのに必要な労働量。労働力商品というのは、消費すると、その生産に必要であった以上の労働量を生み出せる。そういう特殊な商品です。
自給自足の農民は全部自分で消費してるわけですね。でも年貢を取られますね。だから自分で作る方が消費するより大きい。例えば10万人の集団が自給自足をしていたら、楽にその余りの部分を生み出すことが出来るだろう。1億2千万の社会が、あるいは地球の人口何十億かがそれをやっている。
じゃあ、その余りの部分は何に使われるのか。畑や田んぼの開墾、水利、森林の伐採とかの収入のない予備作業に使われる。それから、採れなくなった時のための貯え、備蓄分になる。それから労働しない人の扶養分になる。職業軍人。国家の役人。学校の先生。お坊さん、神官。社会の上部構造の人たちは生産をしないで余りの部分で生きている。これを「搾取」と言います。(文責は編集部M)
| 関西 労働学校ワーキングスクールアソシエ 第3期開講 |
この国で人間を取り戻すために、
労働法を知り・考えよう ■脇田 滋 著
■「労働法を考える」
■新日本出版社
■1680円(税込)
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7月24日、大阪市東淀川区の協同会館アソシエ3階で『この国で人間を取り戻すために、労働法を知り・考えよう』をテーマに、2回講座の1回目が開かれた。講師は、脇田滋さん(龍谷大学法学部教授)。この日は『命と暮らしを脅かす働き方の拡大---「労働法のない世界」の広がり』で、現状を詳しく報告され、ストライキの多いEU・アメリカ・韓国の労働運動の闘いも紹介された。
脇田さんには、労働と貧困、若者の雇用・社会保障、労働法を考える、しないさせないサービス残業などの著書があり、HPで派遣労働者の悩み相談を行っている。
講義は、若者が人間らしく働けない現実から始まった。自立できない低賃金、非正規雇用の拡大、偽装請負、名ばかり管理職、非人間的労務管理、無権利な非正規労働者の具体的事例と資料を示しながら話された。そして労働法体系の説明、バイク便・登録型ヘルパー・トラック運転手・ヤクルト販売員などの偽装雇用としての個人事業主と労働・社会保障法の関係、戦後の労務供給事業の禁止と財界・経営団体の派遣法制定の狙い、中曽根元首相の労働組合弱体化・労働者分断、正社員破壊戦略としての派遣「雇用の3分化」などに。 世界の常識として、派遣労働者と派遣先労働者の同一待遇・同等以上、派遣ではなく一時的労働で期間満了後は常用雇用化、セフティネットの制度確立がわかりやすく話された。ちなみに失業保険を受給できない失業者の割合は、日本77%、カナダ・アメリカ57%、イギリス40%、フランス13%、ドイツ13%。こうした状況にもかかわらず、30年もストライキのない日本の労働組合、派遣切りにも「静観する正社員・企業内労組」の実態を批判した。
フランス産別労組は組織率10%であるが、産別企業団体と締結した労働協約は90%以上の労働者に拡張適用される。また労働者個人にストライキ権があるという認識があり、産別労組のストライキ行動に未組織の労働者も参加する。当然、解雇は出来ない。
結びは、日本の企業別労組の無力化として、「最も恵まれた大企業正社員、正規公務員だけが団結権を享受している。世界に例のない状況」と。
2回目は、8月28日(金)午後6時30分〜8時30分、「働くルールを確立するために」と題して実践に役立つ話、日本の労働運動の再生を語る講義となる。参加費500円。
連絡先は、06(6586)5005(非正規労働者のための協働センター)まで。メールは、sodan@c-c.or.jp
(文責は大阪・N)
お詫びと訂正
機関紙『コモンズ』5頁「ワーキングアソシエ」記事中、
数字を以下のように訂正しお詫び申し上げます。
2段目下から7行目
×フランス産別労組は組織率20%であるが、
○フランス産別労組は組織率10%であるが、
3段目下から9行目
×2回目は、8月20日(金)午後6時30分〜8時30分
○2回目は、8月28日(金)午後6時30分〜8時30分

皆さんと私たちが違うということ
一番遠いところは三宅島ぐらいしかいったことがありません。したがって海外には出たことがありません。いわゆる「生粋の日本人」みたいなもんであります。しかし皆さんからみると外国人ということになります。
法的にわたしは外国人であります。今回のテーマである「在日朝鮮人・韓国人をとりまく状況」というテーマですけどその前に、みなさんと私たちの圧倒的な違いを指摘しておかなければならない。それは日本の皆さんは国民といわれます。私らは市民といわれています。よく考えてください。国民といえば憲法で保障された権利です。憲法でこういっています。主権は国民にあると。しかし市民にはないんです。言葉のもとをたどると旅行者ではない、その町に住んでいる人。したがって私はこの国の主権はもっていないけど住んでいる市民である、という扱いをずっと受けてきました。ぼくはいろんな場でしゃべる機会があって絶えず日本の人たちに言っているわけですけど、果たしてこの地に住んでいられるという権利が何によって保障されているのか考えられる日本人っているだろうか。ここに住んでいける存在そのものを考えざるを得ないということを考えられる、認識せざるを得ない日本の人がいるだろうか。僕らは生まれながらにしてそのことを考えざるをえなかった。
先程もいいましたように、在日朝鮮人をとりまく法的状況のもと、法的専門用語がでて難しくなります。前提としては皆さんは断固としてここに住める人である。しかし在日朝鮮人、あるいは韓国人は戦後さまざまな形で日本に存在する権利が変わってきた。この闘いは今も続いております。
私のなりたち
今日は沢山時間をもらいましたので、みなさんと私たちが圧倒的に違うということを前提に私の成り立ちから話していきたい。先程お話された七条支部の山内さんとは十四才の時からのつきあいです。ふりかえると三〇年以上前から知っているわけです。山内さんがいったい私に何を呼び掛けたかというとじつは私と山内さんは同じ生活の状況を共有していたわけです。ぼくは今日ちょっと午前中どうしても外せない仕事があってですね、遅れてまいりました。従って山内さんの全部のお話を聞くわけにはいきませんでしたが、大体想像するに、たぶん触れられたと思いますけれども、私は十三才の時にですね、東九条にある、いわゆる「ゼロ番地」という鴨川と高瀬川を挟んだ二重堤防のところに引っ越しをせざるをえないという、そういう生活環境におかれました。で、その時にあの山内さんと出会いました。
実は私の闘いの始まりはそこからであります。ただ、私の闘いはそこからでありますけども、実は私は六人兄弟の五番目であります。従って上に四人の兄弟がおります。で、長男も実は次男坊も、男はみな活動家でした。一番上の兄は私と十四才歳が離れております。一九四一年の生まれです。今生きとったら還暦になりますね。今は、死んでいないわけですけれども。その兄貴も、総連系の活動家で民族派として運動してまして、総連九条支部の青年団長をやりました。二番目の兄貴は韓国系の、いわゆる民団系の活動家で民団の京都府連の青年団の団長をやりました。
そういう家に育ったわけですから、実はわたし中学校は「やっと出(で)」ですけど、中学でるまでに学校五つ替わっております。いちばん最初にいわゆる公立の小学校に入れられました。で、三年生の時に長男が、断固として民族学校に行かすべきだと、ということで民族学校に転校しました。これ大変なことです。先程も紹介した通りに、小学校三年生ってのは約十歳から九歳くらいです。で、兄たちは二十歳まわってるわけです。親に命令され、兄に命令されですね、学校を替わっていく。実は、私が何でこんなことを言うかってのは私は絶えずそういう状況下に存在を置かれてきたっていうことです。家族の中で民族の対立があった。思想的な対立があった。小学校の時からそんなことを感じながら生きてきたわけです。それは感じざるをえないわけです。よくいわれますね。まさに置かれている、その、処遇によって人の意識ってのは決定されていくかもわからん。そういう意味では非常にそこで学ばせていただきました。
民族学校で民族教育を受ける
いずれにしても今紹介したように私には、そういう家庭ですから、三年生の時に公立の小学校から民族学校に行かされました。で、そこで民族教育を受けました。自分にとってはまさに異文化なわけです。異文化。それまで日本語しか使われへんかった私が、学校にいったらですね、同級生がきちっと横についてくれて、放課後に二時間程度、ウリマルの練習をさせてくれるわけです。で民族学校ですから、原則として日本語禁止なわけですね。通常会話も含めて全部チョソンマルでっていう形になるわけです。
で、先程紹介したように私は今まで日本語しか使ったことがない。実はそれまで自分の父や母のことを「お父ちゃん」「お母ちゃん」と言っとったわけです。それが三年生の後半になると突然、「アポジ、オモニと言え」と、こうなったわけです。これは子どもにとっては大変なことです。
いずれにしても、そう言う形で学校を転校し、小学校六年まで民族学校におりました。で、そこでいったい何を教えられたかと、たぶん、あの、いまの歴史教科書なんかの問題になってますけど、我々の民族はいかにして迫害されてきたかと、我々の民族はいかに優秀であったかっていう、こういう民族教育を受けてきました。五千年の歴史のある国家や五千年もの歴史のある民族であると、我々は。「そのことを誇りに思え、従っていかなる日本人からの差別に対してもひるむことはない」、ということを教えられるわけです。差別に対して立ち向かっていくときのその断固たる術として、自らの民族である、それを解れ、学べ、学べばおのずから、日本の社会あるいは日本の大衆から受けるさまざまな差別に対しても断固たる自分が存在をし得る。そういう形で徹底した民族教育を受けました。
ソンセンニム、いや先生という意味ですけどね、先生たちは、ぼくはある意味で間違いはなかったと思います。民族学校に行ってる子どもたちってのは、たしかに裕福な子どもたちもいましたが、多くの子どもたちが、やはり貧しい在日の子弟でした。そういった意味でその子らが将来この日本社会に生きていくときにですね、いかなる術を持って生きていくのか。差別に、差別と抑圧に負けたままで生きていくのか。じゃなくて、自立し、主張できる人間として育っていく、たぶんそういう理想を持っていたと思います。
で、そういう意味においては、私は民族学校に行っているときは優等生でした。大体、三ヵ月くらいで、あの韓国語、朝鮮語ですね、ウリマルがほとんど完璧にしゃべれるようになりました。これは不思議なもんで、環境ってのがどれほど人間に影響するのかってのは本当に体験しました。子どもたちってのは家庭にいるよりも圧倒的に学校にいる時間の方が長いわけです。その時間ってのが、日本語禁止ですから、日本語しゃべると、「あ、日本語(イルボンマル)しゃべった」と同級生に怒られるわけです。で、僕らの小さいときは、たぶん今でもそうだと思いますけども、友だちって言わないんですね、「トンム」っていったんですね。で、これは「同志」と同じような言葉なんです。そういう形の中で、今紹介したような徹底した民族教育、それから、言語学習、なおかつ、思想教育も受けました。「金日成万歳」っていうのが、絶対我々の至上目的、至上命題でした。私は先程紹介したように小学校三年で入りました。じつは小学校四年で入ると少年団というのがあります。胸に赤いネッカチーフが巻けるんですね。それになりたくてなりたくて、皆が努力するわけです。で、私も努力しました。小学校四年の時、何人か、私も少年団への加入を許されました。で、その中で、いまいったように徹底した民族教育、もっといったら、そうですね、反日教育っていってもええくらいの厳しい教育を受けました。ぼくはあの時代状況として、先程もいいましたけど、決してそれは間違ってなかったと。在日朝鮮人の置かれてる地位ってのは非常に困難な状況がありました。従って、同胞を中心にしてですね、自分たちの生活防衛、とりわけ教育の防衛をはかっていくのはすぐれて重要な課題でありました。で、私自身、そういう機会に恵まれたことを、今は幸せと思っております。
で、なぜこういう話をするかっていうと、たぶんこれからぼくがしゃべることはですね、冒頭に紹介があったように今二つのNPOの理事をやっています。いわゆるボランティア活動をやっているわけです。で、地域では、もういろんなことをやっています。のちほど紹介します。変遷を皆さんに知ってほしいわけです。私がどうかわって、私がどう存在し、どのように生きてきてどう変わって、それで今何を言おうとしているのか、これから何を課題にしようとしているのかっていう、そういった意味で、少しだけでいいですけども、同じ世代を歩いていると、そう思いながら話を聞いてください。そういう意味で今、私の小学校の時代の話をしました。(つづく)
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