第17号(2009/11/5)●7面
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■連載(寄稿)

協同組合運動とは何か(15)
イタリア協同組合運動の歴史(下)

増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事)

レガの新しい戦略A

  1962年に採用された新戦略では、レガ(乃至は協同組合運動)は社会の傍流に甘んじることなく、イタリア社会の主要な社会的経済的勢力となる目標が設定されました。
 この結果、第1に、中小企業や中産階級に門戸を開くことによって、小売、文化、保健・医療、観光、漁業、輸送といった新しい重要なセクターが形成されました。また、小規模農業者の組織化など従来の農業セクター等が拡大されました。
 第2に、いわゆる第3セクター論を展開し、私的セクター(私的企業)と国家セクター(国家企業)との事業協力に道を開いたのです。
 第3に、協同組合運動が、協同組合の利益だけではなく、若者や南部イタリア(南北格差問題)のための住宅、雇用の創出といった国民的課題を解決する事業として展開したことです。

新たな組織構造

 新たな戦略に合わせた組織改革が進みました。第1に、全国的な部門別提携組織が創設され、事業連合組織も全国化されました。提携組織の役割は、特定の経済セクター内の協同組合に技術的な専門知識や計画立案の技量を全国的な規模で提供することです。また、全国的な事業連合組織は、個々の事業体にマネージャー、専門家、マーケティング、会計・経理、規模の経済や事業戦略を用意したのです。特に両者は、合併と専門化を通じて大規模協同組合を創設する戦略を共同で展開しました。
 第2に、金融面での強化です。協同組合は常に資金不足に直面します。金融事業連合のフィンコーペルは1969年に200の協同組合によって作られました。協同組合間で資金を融通し合い、また保証引き受けにより銀行信用を容易にするなどを実現しています。また、保険会社としてウニポールがあり、多様な保険を手がけ、イタリアでは顧客の信用度が2番目に高く、事業規模も第5位の大手保険会社になりました。ウニポールは、連載初期に言及したモンドラゴン・グループの保険会社ラグン・アロに投資しており、出資の30%を所有しています。イタリア・スペインだけではなく、ヨーロッパの協同組合保険会社は相互に出資して、欧州市場の占有率を高めています。国際組織として国際協同組合保険連合があります。


協同組合の成功

 イタリアの協同組合運動は、レガであれ同盟(カトリック系)であれ、イタリア経済の中で大きな比重を占めると共に、その社会的有用性が高く評価されています。
 この突出したイタリアの成功の要因として、特にレガを焦点におけば、11点が挙げられます。@統一した協同組合法、A中央連合会(地域別連合組織と部門別連合組織)―協同組合企業のネットワークの堅持、B事業連合組織による各事業への具体的指導と部門間取引の促進、C協同組合間協同、部門間協同、D金融機関の確立―各協同組合財政支援体制、E提携政策―政党・労働組合・中小企業・職人、私的企業・国営企業等々、F大規模協同組合の影響力と役割、G政治・経済・社会の変化への対応力、H国家の協同組合への支援、I協同組合を支える文化、Jレガの政治性(反ファシズム・レジスタンス運動や地方分権化活動等々)。
 イタリアの協同組合運動の実績から次のことが言えます。第1に、協同組合は資本主義の中でも充分に持続可能かつ繁栄可能な事業形態であることです。第2に、グローバリズムと市場原理主義に有効に対置できる地域経済の核になりうることを示しました。第3に、より平等な社会を促進してきたことです。協同組合は、その組織内部では共同で所有し賃金格差も小さいのです。対外的にはより安価な住宅や各商品を提供します。第4に、資本主義の原動力は最大利潤の獲得にあります。しかし、協同組合は出資者への配当が制限されるのですが、その分再投資し、教育や文化的事業など「連帯を育む試み」に使われ、社会に還元され、地域社会に貢献するのです。現実的具体的に経済をモラル化しています。
 イタリア協同組合運動の達成とその構造は、イタリア社会の固有性と歴史性に負うところが大きいのですが、同時に、その普遍性も明らかです。そのことは、スペインのモンドラゴンの経験からも言えることです。
地方からの報告 ……………………15(継続35)
サハリン・樺太史研究会合同調査団報告

野添憲治

ユジノサハリンスクの街路樹
合同調査団に加わって

 ことしの9月、サハリン・樺太史研究会09年度合同調査団に加わり、ロシア・サハリン州(旧樺太)に行き、8日間滞在した。サハリン最北部のオハ市の郊外で石油や天然ガスの発掘と産出で潤い、道路の舗装はすすみ、住宅建設が盛んだった。だが、石油や天然ガスの埋蔵量も底が見えてきたといわれ、やがて失業者があるれるだろうと心配していた。また、サハリンの物価高に、年金生活者たちは暮らしていけないと悲鳴をあげていた。ただ、近年の地球温暖化の影響をサハリンも受け、冬の訪れがおそくなり、積雪も少なくなっているという。
 サハリンでのわたしの仕事は、戦前にこの島へ北海道や東北から多くの出稼ぎ者が渡り、漁業や林業などに従事した。しかし、その実態はこれまでほとんど調べられてこなかった。だが、戦前の樺太の産業を考えるうえでは重要なことなので、資料の掘りおこしをしようということになった。かつて秋田県内で樺太の出稼ぎ者から聞き書きをとり、2冊の本にまとめて出版しているわたしに資料収集の役目がまわってきた。
 共同研究者の国立サハリン大学を根城に、ユジノサハリンスク(旧豊原)の州立郷土博物館や文書館で資料を読み、収集をした。資料は非常に少なかった。また、サハリン日本人会と連絡をとり、残留日本人からの聞き書きをしたが、戦争の傷跡をいまも引きずりながら生きている高齢者たちの姿には、胸をうたれるものがあった。彼女たちの苦しみや悲しみを、日本にいる人たちはどれだけ知っているのだろうか。

サハリンの残留日本人

 サハリンをめぐって日本とロシアが勢力を張り合うのは18世紀からだが、日露戦争の結果、1905年以降は北緯50度以南は日本領となった。領有後は漁業、林業、炭鉱などの開発が進められ、本土から多くの労働者が樺太に渡った。敗戦時の日本人は約35万〜40万人になっていた。この他に2万人の軍人がいたとされる。
 1945年8月9日にソ連軍が北緯50度を突破、22日までサハリンの各地で戦闘が起きた。この時に樺太庁は老人や幼児、婦女子などを北海道へ緊急疎開措置をとったが、23日以降はソ連軍が宗谷海峡を封鎖したので中止になった。その後は漁船などで樺太から北海道に脱出する人もいた。だが、シベリア収容所に送られた人以外は、1946年に結ばれた「ソ連地区引揚米ソ協定」で50年までに全員が日本に引揚げたといわれている。日本政府はサハリンに日本人残留者はいないと言い続けてきた。だが、朝鮮人やロシア人と結婚した女性は日本人ではないとして、帰国できなかったのだ。
 その後、民間団体の長年にわたる調査で、2001年段階でサハリン残留日本人が約400人いることがわかった。そのうち7割が女性だという。
 ユジノサハリンスクのサハリン日本人会の事務所で植松キクエさんから聞き書きをしたとき、400人のうちすでに150人近くが死亡していると言っていた。数年前にはサハリンの奥地に住んでいる女性が、「わたしは日本人です」と訪ねて来たという。敗戦の時にロシア人と結婚したが、山奥にいたので引揚げのことも知らなかったという。80歳に近く、長年使っていない日本語もたどたどしく、名前も忘れてしまったと名乗らず、また山奥の家に帰って行った。おそらく彼女は、再び姿を見せることはないだろうと植松さんは言っていた。「連絡のつかない奥地には、まだこんな人が何人もいるんじゃないでしょうか」と寂しそうに言った。
 残留日本人で元気な人たちはいま、日本に一時帰国して肉親たちと会い、またサハリンに帰っている。「この一時帰国を生き甲斐にしている人がほとんどです」と言っていたが、年々人数が減っているという。残留日本人の一世たちには子どもや孫がおり、一緒に暮らしている人が多いそうだ。しかも、最後は日本の地で眠りにつきたいと望んでいるという。年が老いるとともに望郷の思いが強まっていると聞いたあと、紅い実をつけた街路樹の下を歩いて帰った。胸の中に冬の風が吹きつけた。

朝鮮人連行者への迫害

 戦前のサハリンにはまた、日本人男子の労働力不足を補うために、強制連行した朝鮮人を連れて行った。敗戦時で約4万3000人といわれている。飛行場建設や工場で働いた人もいたが、大半は炭鉱で働いた。
 しかし、1945年8月9日にソ連が日本に宣戦布告し、日本の敗戦が目の前に見えた時、日本憲兵、在郷軍人、青年団員などが朝鮮人狩りをおこない、瑞穂村虐殺事件、上敷香警察署虐殺事件などで20人以上が殺害されている。
 また、敗戦後の1946年に日本への引揚げがはじまっても、朝鮮人はその対象にならなかった。そのため、長い間にわたってサハリンに放置され、異国で苦難の生活をおくった。サハリンの残留日本人と朝鮮人連行者の足跡は、まだ明らかになっていない。


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