第21号(2010/3/1)●別紙
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“右側・中間・左側3派の分離鼎立”
民主主義、社会主義について
[進歩戦略会議討論会寄稿]

進歩評論編集委員パク・ヨンギュン2009年3月23日
訳/黄 泳洪



民主主義をどのように
理解するべきか


 私が考えるに、民主主義は代案共同体、代替権力の核心です。よく民主主義を支配の形式としてだけに考えるが、民主主義は単純に抑圧を象徴する支配の形式ではなく人類が発展させた新しい価値と権力の形式。民主主義と独裁は互いに置き換える概念ではない。しかし民主主義はブルジョアたちが創り出した、個人の人格的独立性を保障して、支配を創り出した方式で、単純に共同体的な規律と集団主義によって、強制される統治形式とは明白に区別される。問題はブルジョア革命が政治の問題を人間一人一人の自分の統治形式で内部化したにも拘わらず、また超越的なものに変えて置いたという所にあるという点。それがまさに代議制ー代表制で、従って代議制ー代表制から民主主義を人民の自己統治方式へ一層進化させなければならない。
 特に民主主義は、人民の自己統治という観点で代議制を越えた直接民主主義の正当性を社会倫理的に持って、人々はこの様な価値を自身のエトスに内面化している。このような意味で、民主主義は、今日大衆を政治化できる真の統治形式ということができる。そう言う意味で、民主主義はより一層進化し、民主主義を単純な形式的ー手続的問題で思考しないことが必要である。特に、今日、民主主義は、官僚制という国家装置に基づいており、私はこの官僚制的国家装置と違った統治形式として民主主義を急進化する必要があると考える。

 しかし相変らず私たちの運動方式と運動組織は、こういう根本的な反官僚的民主主義の組織形式を発展させていない。政治組織と労組の組織形式はブルジョア的官僚制と同じ執行体と大義体の二元的構造を持っていて、人民の自己統治方式は召還権や懲戒の法的形式にだけ処理されるだけ。だから実状はブルジョア的権力形式と別段違いはない。それを前提にして新しい社会を話すこと自体が、アイロニーである。
 今日多くの人々が「参加民主主義」を話すが、参加民主主義だけではだめで、参加を越えて「行政的で執行的な権力」を「コミュニケーション的執行権力」に変えなければならない。それはその構成員たちによる直接統治の組織形式を創り出す。こういう悩みなしでは代案権力がスターリン的全体主義を抜け出せない。こういう側面で急進民主主義者などの悩みと討論が、本格的な代案社会の建設と連結される党の建設過程にも加味されなければならない。

社会主義をどのように
理解するべきか


 社会主義と言う言葉ほど、誤って理解されている言葉はない。代表的な誤解が二種類ある。
 最初は、社会主義をコミュニズムと同一か、でなければ全く違うことだと考える傾向。これは2つの歴史的理由のため。最初に、過去のスターリン主義が社会主義を独自の生産様式と規定したためであり、次に、韓国の特殊な反共イデオロギーが共産主義をタブー視したため。社会主義は決して独自的生産様式でなくその履行形態で、従って社会主義は目標ではなく、目標はコミュニズムである。
 今日、コミューンを新左派の専有物と考える傾向があるが、それは明白な誤解。コミューンは中世自治都市で始まり、パリ・コミューン革命が発見した新しい代替権力の形態。勿論この具体的な形態は国ごとに時期ごとに違い、韓国での形態が何であるのかは私たちの実践過程で具体化される。
 二番目は、社会主義をマルクス・レーニンが「労働に応じた分配」と規定したことに対する誤解。あたかも社会主義の原理が「労働価値=労働時間による良貨された原理」により支配される社会のように考える傾向が一般的で、労働価値論をブルジョア的支配様式で見るのかそうでないのかの問題がある。多くを語る余裕はないが、少なくとも投下労働価値説は、アダム・スミスで発見されてリカルドで完成された学説というものを明確にする必要がある。また労働価値がブルジョアの所有権の基礎というのも明白。私は労働価値論にともなう社会主義は明白な誤りと考える。
 労働価値によって代表される価値の普遍的等価形態がまさに貨幣。しかし事実、社会化された労働は価値を時間で換算できない還元不可能な労働の価値を作り出す。死んだ労働の蓄積の機械がそうであり、自動化されたシステムがそうであり、直接的に参加はしないが連結している価値創造の参加者たちの問題がそう。従って社会主義をこれと共に理解するのは相変らずブルジョア的だと考える。これが社会主義に対する幻想と物神化を作り出し、それはまさに社会主義=国有化という観点となった。
 ここには国家権力を掌握した後、国家権力を利用して私的所有を国有化し「社会革命」をするという所謂「先に政治革命、後に社会革命」という二段階的思考がある。しかしマルクスは、すでにパリ・コミューンでコミュナルドゥを批判する時、こういう二分法を批判したが、私たちはこういう二分法の中で思惟してきた。それで社民主義でも、正統レーニン主義でも、「革命」といえば「政治権力の掌握」「政治革命」だけを考える。だから社会革命はなく「政治革命」の「革命的情勢」を待つ「待機論的で破局論的な思考」が続いてきた。このように誤用されているから、むしろ私は社会主義という概念を廃棄したい。そしてコミュニズムを復元したい。

社会革命と政治革命


 社会革命と政治革命は一緒に進まなければならない。その核心に「コミューン」がある。「コミューン」は代替権力であり、以後の政治権力装置になる自律的な共同体の自治権力。革命は単純に覆るものではない。それはむしろ新しい共同体を構成して生成する。革命過程自体が、すでにそのような権力を内的に含蓄しているべきで、そのような権力体を作り出さなければならない。このような点で社会運動のない労働運動、労働運動のない社会運動は、決して資本主義に代わる新たな共同体を作り出すことができない。国家はまさにこの過程の破壊を通じて新しく建設されていく自治権力体以外の何ものでもない。
 二番目の問題は、社会主義をしきりに個人的所有の観点で、ブルジョア的分配の問題に還元するという点。私はコミュニズムが労働価値に基づくと考えない。すでにマルクス・レーニンも「能力に応じて、必要に応じて」という原理を提示したように、これは労働価値に基づいた等価的分配の原理に背反する。すなわち社会主義という移行期に、これと他の原理が存在しなければならないということを意味する。そうでないならば社会主義からコミュニズムへの移行は、もう一度の革命を前提にすることになる。従って社会主義での自治権力としてコミューンは、「互恵的」でなければならず、この互恵性がまさに各人の発展がすなわち社会の発展となる社会への移行を作る物質的な力になるためである。(4月号に続く)
連載
「資本主義の破壊的な開発モデルが地球と人類を脅かしている」

コペンハーゲンで行われた気候変動会議における
ベネズエラのチャベス大統領の演説(1)
翻訳 青西靖夫(開発と権利のための行動センター代表)

【編集部注】 昨年12月16日にコペンハーゲンでおこなわれた気候変動会議における、ベネズエラのチャベス大統領の演説の翻訳である。翻訳者の青西靖夫氏の了解を得てここに紹介する。


世界に民主主義は存在せず、
  帝国主義的独裁下にある

 大統領各位、また列席の皆様、私はこの午後に話されてきたことを続けるつもりはありません。ですが、まず始めにブラジル、中国、インド、ボリビアの代表団によって行われた演説に対してコメントをすることをお許しください。私たちは座席から発言を求めていたのですが、受け入れてもらえませんでした。ボリビアのエボ・モラレス大統領に敬意を表するのはもちろんですが、ボリビアの代表団の方は次のように言われました。
 「提出された文書は民主的なものでもなければ、包摂的でもありません」
 私たちがようやく到着して、着席しようかと言うときに、前のセッションの議長が文書が届けられたことに言及しました。しかし誰もそれを知りませんでした。私はその文書について質問しました。未だ手にもしていません。きっと誰もその文書について知らないことでしょう。トップ・シークレットなのです。

 ボリビアの代表が言われるように、民主的でも包摂的でもないのです。しかし皆さん、これこそが現実の世界の姿ではないでしょうか?私たちは民主的な世界にいるのでしょうか?世界システムは包摂的なのでしょうか?現在の世界システムに私たちは民主的な、そして包摂的な何かを期待することができるのでしょうか? 私たちが生きているこの地球は、帝国主義的独裁下にあり、こうして私たちは告発し続けているのです。
 帝国主義的独裁を引きずり落としましょう! この地球の民衆と民主主義と平等に祝福を!

 ここで私たちが目にしているのは、こうした世界、排除の反映なのです。南の国よりも、第三世界よりも、発展途上国よりも優れていると信じている一部の国が存在しているのです。私たちの偉大なる友であるエドアルド・ガレアーノが語っているように、歴史の中で列車に引き倒されてきたように、踏みにじられてきた私たちがいるのです。
 だからこそ、今回のことを奇異に思うこともありません。世界に民主主義は存在せず、私たちは改めて世界的な帝国主義的独裁の強力な証拠を突きつけられているに過ぎないのです。またこの壇上に登ろうとした二人の若者がいました。幸いにも警備員は慎重に振る舞い、あちらに押していっただけのようですが、彼らも協力しているのではないですか? もちろんこの会議場に多くの人が入らないことはわかりますが、外にもたくさんの人がいるのを知っていますか。新聞によるとコペンハーゲンの街路では激しい抗議行動もあり、拘束された人たちもいるとか。私はそうした外にいる人たち、多くの若者たちに挨拶を送ります。
気候を変えるのではなく
  システムを変えましょう

 そうした若者たちは憂慮しているのです。若者たちはこの世界の未来について私たちよりも心配をしているのです。この会議場にいる大半の人たちは、すでに太陽を背に受けています。しかし若者たちは太陽を正面から受けて立ち、未来を心配しなくてはならないのです。
 偉大なるカール・マルクスの表現をとるならば、コペンハーゲンを亡霊が徘徊している、と言うかもしれません。亡霊はこの会議場のあちこちを、私たちの間を静かに徘徊し、上へ下へうごめいているのです。この亡霊について、あえて誰も名前を付けたくはないようですが、資本主義こそがこの亡霊なのです。
 資本主義なのです。人々が怒声をあげ、それを聞くこともできます。私はここに来る途中、街頭に塗られたスローガンを読みながら来ました。若者たちのこうしたスローガンを先ほどの若者からも聞きました。メモした中に二つの強力なスローガンがあります。一つは「気候を変えるな、システムを変えろ」というものです。
 このスローガンをここにいる私たちのために使いましょう。「気候を変えるのではなく、システムを変えましょう」。その結果として地球を救う第一歩を踏み出せるのです。資本主義、破壊的な開発モデルは、生命を奪いながら終結を迎えようとしています。それも人類を永遠に消滅させる危険をもって私たちを脅かしているのです。
 再考を求めるもう一つのスローガンがありました。世界中を駆け巡り、いまだ打撃を与えている金融危機に関係したものです。北の豊かな国々は、銀行家、巨大銀行にどれだけの支援を与えているでしょうか。数字は失念しましたが、米国だけでもそれは天文学的な数字です。路上では次のように声を上げていました。「もし気候が銀行であったなら、とっくに救っていたに違いない」
 これは真実だと思います。もし気候が資本主義下の巨大銀行であるならば、豊かな国々の政府が救いの手をさしのべていたことでしょう。まだオバマは到着していないと思いますが、アフガニスタンで無実の人を殺すために3万人の兵士を送る決断をしたほぼ同じ時に、ノーベル平和賞を受け取った米国大統領が、そのノーベル平和賞とともにここに出席しようというのです。
 しかし米国は札束を生み出す、ドル札を生み出す機械を持ち、銀行と資本主義を救ってきたと信じているようです。
 ここまでがブラジルやインド、ボリビア、中国の発言に際して、ベネズエラそしてボリバリアーナ連合(ALBA)がしっかりと共有する立場から、私たちが挙手して発言を求めていたコメントです。そういうことで、議長にはここまでの時間は数えないでもらいたい。     (つづく)


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