| 不二越原告団は、3月5日ソウルから、判決、不二越門前闘争、東京行動と、2週間に渡り、警察権力の不当な介入にも屈せず、身体を張った激しい闘いを展開した。80代の彼女たちの闘いは、日本の侵略と植民地支配を許してきた我々に対しても、共に闘うのか問いかけるものだった。(写真報道はこちら) |
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■3月5日
ソウル日本大使館前で決起集会
3月5日、原告団と韓国の支援者50名がソウル日本大使館前で決起集会を開いた。これまで家族にも不二越に連行されてきた事実を伝えることができなかった原告たちが、韓国内で初めて公然とマスコミの前に出て訴えた。「挺身隊」という言葉によって、戦後も受け続けた傷は癒されるどころか、自分たちが死ぬのを待っているかのような戦犯企業不二越を絶対に許さないという強い”恨“(ハン)があるのだ。
集会後、原告ら代表2名が大使館を訪問し、政府への要請文を手渡した。原告6人が原告団の代表として来日して闘うことを宣言し、参加者全員がシュプレヒコールで、来日原告団と共に闘うことを誓った。
■3月8日
不当判決を徹底弾劾!
 
「裁判官の資格はない。法衣を脱げ!」原告の怒りの声が響き渡る。判決は日韓請求権を理由に原告の訴えを棄却した。原告団は判決を言い渡し逃げるように法廷から去った裁判官に机を叩いて抗議し、不二越の弁護人につめより糾弾した。
そして、裁判所構内で直ちに抗議行動を展開した。原告団にとって司法は日本の国家権力の一部であり、これまで多くの強制連行訴訟を全て棄却した弾劾の対象である。
裁判所は警察権力を動員し、80代の原告たちのハルモニ(おばあさん)たちの両手両足をつかんで50メートル以上離れた門の外に引きずり出した。この暴力で原告のひとりは首筋を痛め病院で治療を受けた。そのために12日の東京行動に参加できなかった。こんな暴挙を許してはならない。
原告団は、裁判所前で、続行した抗議集会を持ち声明を発表し、翌日から始まる不二越門前・全国集会への参加を訴えた。
■3月9日
不二越正門全国集会、
アキレス腱・南門で激しい攻防戦

翌9日、富山は雪。
不二越は昨年原告団が来日した10月、12月に続いて正門を閉め、警備員を配置した。
凍える寒さの中、追悼式の後、全国集会が開かれた。
集会には明日の高裁判決を前に、七尾中国人強制連行訴訟原告も駆けつけた。犠牲者の遺族原告が「日本帝国主義の戦争責任を追及し、勝利するまで共に闘う」「思いは同じ」と連帯のあいさつがあり、原告と固い握手を交わした。全国各地から、戦後補償問題に取り組んでいる仲間たち、労組からは関西生コン支部から連帯の発言が続いた。
そして、集会の最後に原告団から、重要な闘争方針が提起された。「これから、原告団6人は3つに別れて南門と北門に行く。すべての門前で展開する!」
原告団2人と支援者の一部を正門に残し、横付けされたマイクロバスに乗り込み、原告団4人と支援はトラックが主要に出入りする南門へ向かった。雪はいっそう激しくなる。南門で原告2人と支援者が降り、残りの原告2人と支援者5人はマイクロバスでそのまま北門へと向かった。
南門は、一般道路から200メートル引っ込んだところにある。
原告はバスを降りると直ぐ、南門に向かった。原告ひとりに何人もの警備員が取り囲み阻止しようとするが、「社長を出せ」と大声で叫び身体を張って進んだ。警備員ともみ合いになり、地面に倒された。「やめろ!何てことをするんだ!」原告と行動を共にしている韓国の青年が、警備員を引き離した。原告たちはカッパをきていても、頭から雪でずぶ濡れだ。吐く息は真っ白。
もうひとりの小柄な原告も、どんどん進んでついに南門の前まで行った。彼女の足下はもみ合いで靴が脱げている。南門・鉄門は閉められ、若い女性警備員も配置して阻止線をはった。
わずかな門の隙間から、構内に突入しようとする原告。その気迫はものすごい。構内に入ろうとして道路から進入した大型トラックが列をなして停まっている。
原告たちのあまりの気迫の前に動揺する警備員たち。そこに警察20名が介入してきた。押し合いながら、道路に戻された。その時、原告のひとりが、道路にでて大型トラックの前に立ちふさがった。クラクションがけたたましい。信号交差点での決死の闘いだ。トラックの後ろは交通渋滞して、一帯は騒然とした。
北門と正門の原告たちも南門に合流した。警察が介入しても決してひるまない闘いをやり抜いた。
この日の闘いは、不二越闘争における第二段階突入への戦闘宣言である。(16日正門集会で宣言文を読み上げ発表した)
■3月12日
政府(民主党幹事長室)へ要望書提出、
不二越東京本社闘争

3月12日、原告団は衆院第2議員会館での国会議員集会へ。自らの植民地支配での強制連行・強制労働の体験を訴え、日本政府としての解決を求めた。集会はのべ50人で2時間近く行われた。
集会の途中、山田昭次(立教大学名誉教授)さんを代表として、原告2人らが、内閣への要望書の提出行動を行った。国会議事堂の民主党幹事長室で、今野東・民主党副幹事長に「韓国人徴用労働者の補償を求める要望書」を提出した。
集会終了後、原告団と支援者は直ちに、汐留の不二越東京本社に向かった。昼食抜きだ。
午後2時から不二越本社が入る住友ビル一階ロビーで抗議行動・集会を3時半まで行った。原告団の闘いに恐怖した不二越は隠れて出てこない。横断幕を掲げ、たすきとはちまき姿の原告団。支援者たちが横断幕をもち集会を行った。一階から吹き抜けのビル全体に、シュプレヒコールが響き渡った。
■3月16日
不二越へ新たな闘いの宣言
再び富山に戻った原告団は、3月16日、不二越正門に立った。
新・宣言文
不二越企業が今の誠意なき態度を続ける限り、私たちは闘いをやめない。私たちは、不二越が行った戦時強制連行・強制労働の事実を韓国全域に広げる運動を行う。
次に来る時は、私たちの子どもや孫を不二越正門に連れてくる。歳を取り病身の私たちがやがては日本・富山まで来られなくなると思っていたら大間違いである。例え私たちが来られなくとも、私たちの子どもや孫たちへと、闘いは拡大するだけだ。時間が遅れれば、一層恨は深くなることを認識せよ。
本日をもって、不二越闘争の新たな段階を宣言する。
3月17日、三菱自動車・販売拠点、生産工場への申し入れ行動を行った。原告の金正珠さんは、「姉と日本で暮らせるとだまされた。姉は三菱工場に連行されました。申し入れ文書を三菱グループのトップに渡してください」と申入書を手渡した。
5日から18日にかけ14日もの闘いをやり抜いた原告団は、帰国後、韓国内での新たな闘いの準備に入っている。
原告団とともに勝利へ向かって闘おう。(富山・吉川巌)
連帯と共闘を求める隣国の
犠牲者と受苦者たちからのメッセージ
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劉暁波著
『天安門事件から「08憲章」へ――中国民主化のための闘いと希望』(藤原書店刊)
「大虐殺の生存者として、19年来私は努力して抗争し、尊厳ある生き方をして若い魂たちに恥じないようにしてきたつもりだ。だが、あの世から見下ろされてみれば、私は依然として恥辱の中で生きている。この恥辱とは、私の心の奥底にある必死なあがきから生ずるものだ。
この世に命あるかぎり、さらに心をこめて筆を取り、天安門事件の魂たちが生命をもって書き残した悲壮な詩篇に相応しくなるようにしなければならない。私の執筆活動は、墳墓からの叫びでなければならないのだ」(劉暁波、2008年6月3日) |
21年前の天安門の真実
この書との不意の出会いは、21年前の鮮烈な映像を、私に思い起こさせた。戒厳令下にある隣国の首都の天安門広場を中心にして、数十万人に膨らんだ、民主化を要求する数多くの学生達とそれを支援する無数の市民によって、歴史的事件が生じ引き起されていた。
私だけでなく、ブラウン管を覗いていた世界中の人々の多くが、その衝撃的な映像に心を奪われたはずである。だが、その後の顛末は誰もが知るように、6月4日未明に天安門広場へと進行した人民解放軍は、学生と市民たちによる運動のエネルギーを一気に収縮させ、民主化を求めた人々は天安門広場から消失した。
この書を読んでわかるように、命令一下、戦車部隊は、自らの進行を妨げてきた人々をキャタピラーによって圧殺し、人民解放軍を名乗る兵士達の構える銃口からはなたれた弾丸は、同朋であるはずの学生と市民達を無差別に打ち抜いていた。
天安門の真実は、政府が情報を隠蔽し続けているために、六四事件で子供たちを失った「天安門の母」たちによる粘り強い調査と、勇気ある人々の証言などから再構成して透かしみることしかできない。「天安門の母たち」の一人である丁子霖(ディン・ズゥリン)は、2006年に出版した著書の中で、確認することのできた186名の犠牲者が、どのように亡くなったかを記録している。
著者劉暁波(リュウ・シャオボ)と天安門事件
「天安門事件」とは、中国では「六四事件」と呼ばれており、北京だけでなく、それに呼応した全国的な事件であった。翻訳者であり本書の解説者でもある劉燕子(リュウ・イェンズ)がいうように、南京、武漢、西安、長沙、天津、合肥などに飛び火していた民主化運動もまた、六月四日に同時に鎮圧されてしまったのだ。
既に評論家として名をはせていた若き日の劉暁波(リュウ・シャオボ)は、学生の抗議運動の最中にアメリカにいた。人民日報によって抗議運動が「動乱」と名指しされることになったことを聞きつけた劉暁波は、生死のさだかならぬ危険な広場へ赴き、年の離れた妹弟たちのような年齢の学生達のデモを平和裏に収束させようとした。だが、死をも賭した学生達の情念に打たれ、それを支援する市民たちに共感した劉暁波は、彼らとともにこの運動の帰結を共有することを選択した。
結局、首都を包囲する人民解放軍の武力鎮圧に直面した劉暁波は、天安門広場にいた学生達の犠牲を最小限に抑えようと、学生たちを撤退させるために軍と交渉した。この交渉によって多くの人命が、救われたようである。
天安門事件の生き証人として
事件の扇動者として21カ月の間も拘留され続けた劉暁波は、当局によって反省することを強いられた。もちろん拘留されたのは劉暁波たちだけではなく、無数の学生や市民たちさえもが摘発され拘留され、反乱分子として罪を着せられて処罰をうけた。
生きながらえた劉暁波は、権力に屈服しつづけ、沈黙することを良しとせず、天安門事件の生き証人として、あの日に犠牲となった学生や市民たちの霊魂と共闘する道を選んだ。六四事件以来、度々中国当局から拘留されてきた劉暁波の困難な戦いが、この書の中で綴られている。
劉暁波の詩句とその評論は、彼自身の思惑を超えたものである。中国の歴史の縦糸と横糸が彼を貫き、詩人として彼の天稟を媒体にして、悲痛な詩句と自由への願いを書き留めさせているかのようである。その詩句や評論の内容については本書を直接めくって確かめていただきたい。
「08憲章」とは
さて、2008年12月8日に、劉暁波は、再び中国当局によって拘留されることになった。その理由は、「08憲章」の主要な起草者として、名を連ねたことにある。この「08憲章」とは、中国の著名な学者、作家、弁護士、社会運動家たち303名の署名のもとに「民間(市民社会)」から提示された新たな憲法のプランである。
先ごろの2010年2月11日に、劉暁波に対して「国家政権転覆扇動罪」により懲役11年の判決が下された。中国においては、民間から、自由を求める憲法のプランを公表することが重大な罪になるのだ。
だが、この「08憲章」という民主化の要求の署名者として劉暁波が名を連ね、中国当局に拘留されてしまった必然がある。というのも六四事件以降、不屈の民主化のための闘争を国内において継続してきたがゆえに、劉暁波は、「六四事件」と「08憲章」を真っすぐに結びつける象徴的人物なのである。
実のところ民主化を求める人々の声は、いまだに権力と武力とによって押さえつけられているのである。そのために中国の市民社会は、いわば歪んだかたちで二重化されたままである。
「社会主義市場経済」の実態
それはトウ小平以来の改革開放路線をひた走り、社会主義市場経済を標榜し、加速度的な経済発展を遂げた「経済社会」と、六四事件以降、表現や結社の自由を暴力的に奪われ続けている「政治的市民社会」との二つである。
世界経済を牽引するまでに巨大化した中国の経済社会は、一部の富裕層と圧倒的な大多数の貧困に喘ぐ労働者へと分断されている。拝金主義的な富裕層が、政治的に妥協的な態度をとる傾向にある一方、搾取される労働者や土地を収奪される農民たちの不満は、蓄積されていくばかりである。
他方で、政治的自由を奪われた公共圏しか持たない「民間(市民社会)」は、分断された経済社会における不満を表現し、それを自らの生活を変革していく法制度へと作り上げていく回路を所有していない。
だが、劉暁波も指摘しているように、経済活動の自由化とともに高まった民間の力が、インターネットなどの情報技術の革新に媒介され、抵抗の力を紡ぎはじめている。
経済大国・中国に沸騰する内部矛盾
今、経済大国となった中国の市民社会は、抑えがたく沸騰しつつある。すでに以前から年間の暴動や抗議行動は、10万件を超えていた。本年の中国国内の治安維持費は、753億ドルに及び、世界最大規模の300万人の人民解放軍を遥かにしのぐ2100万人の治安維持要員の動員を記録している。そのような巨費をかけねば、民間からの沸騰や、チベット・ウイグル・内モンゴルにおける自治の要求を抑えることができないのだ。
いわば1989年の6月4日において官の暴力によって圧殺された民間からのエネルギーが、社会の表面へと浮上しようとして、再び別のかたちで回帰してきているのである。
劉暁波のメッセージに応えることは
翻訳者たちの努力によって、日本語に翻訳された劉暁波からの貴重なメッセージを、日本の公共圏は、既に受け取った。この翻訳から出版へと至る翻訳者たちの作業は、すでにして劉暁波の叫びに呼応する日本からの連帯と共闘への意志表示にほかならない。
この書を受けとった我々もまた、劉暁波のメッセージと沸騰する中国の「民間(市民社会)」に応答する自由を持っている。1989年のあの日よりも、現在の日本は、経済的に不可分なかたちで中国と結びついている。隣国の危機は、決して他人ごとで済ますことはできない事柄である。中国の安価な商品と政治的自由の双方を享受するはずのわれわれが、この劉暁波のメッセージに応答しないのは、不当な責任の回避となろう。
この書が、日本の公共圏でどのように受け入れられるかということは、これからの日中関係の行方と、日本の公共圏と市民社会の成熟を計る上での試金石となることは疑い得ない。この劉暁波からもたらされた中国の「民間(市民社会)」からのメッセージに真摯に応答するために、われわれは、なによりも、いかにして中国がこのような現状へと陥ってしまったのかを批判的に考える必要があるだろう。(注――文中の小見出しなど編集部)
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