韓国強制併合100年
日韓市民が「共同宣言」発す! |

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報告にあたって
日韓両国で強制併合100年を問い直すさまざまな取り組みが行われている。
今、韓国強制併合100年を語るということは、過去を真剣に見つめるとともに、現在の日本の国家体制、大独占企業のあり方、そして私たち日本人の意識を含めて全体的に考えなくてはならない。
日本政府は、今年の「併合100年」を無難にやり過ごそうと「国防白書」(独島=日本領)の発表を遅らせた。また、現在上告中である在韓軍人軍属裁判と不二越強制連行・強制労働訴訟の最高裁判決も出されていない。来年の2011年度からは、「独島は日本領」と書かれた小学校教科書が使用される。この間、三菱など大独占企業は武器輸出を主張し、現政権も検討する方向である。財界は日系多国籍企業・在外邦人保護のための自衛隊派兵を以前から政府に求めている。
日本は、敗戦において戦犯天皇の身分保障・天皇制護持と引き換えに、沖縄を米軍に売り渡して米軍支配を認め、アジア侵略・植民地化の全戦争責任を不問にしてきた。
私たちは、日本が行った侵略戦争と植民地支配によって引き起こされた歴史とその具体的事実をあまりにも知らない。
1910年日本が大韓帝国に「韓国併合条約」を強制したその日からちょうど100年目にあたる8月22日に東京で「日韓市民共同宣言日本大会」が、その「併合条約」が公布されてから100年にあたる8月29日にはソウルで「韓日市民共同宣言韓国大会」を開催され、150を超える日韓両国の市民団体が賛同して「植民地主義の清算と平和実現のための日韓共同市民宣言」が採択された。ここに、その開幕式(8月22日・豊島公会堂、東京)と閉幕式(8月29日・成均館大学、ソウル)の様子を報告する。 |
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「日韓市民共同宣言日本大会」開幕式
豊島公会堂に1000名余が結集
会場の豊島公会堂は1000名を超える参加者であふれていた。
開会の挨拶で、韓国実行委員の代表である李離和(イ・イファ)さんが「新しい100年の歴史を切り開いていくには何よりも過ぎ去った100年の痛々しい歴史を正しく見る目を持たなければなりません。これまでの運動によって得られた成果と限界を整理し、思想的にまた実践的によりよく発展させるために集まったという点を強調しておきます」「実践と行動計画を具体化させ、地域間の市民運動の連帯を強化する道は何であるかを実践的に模索する時期です。いま行動で証明すべきではないでしょうか?それでこそこの集会が歴史的な意味を投げかけることができるでしょう」と基本的な立場を提起された。
朝鮮半島の平和と民主主義は
日本の平和と民主主義の問題
宋連玉(ソン・ヨンオク)さん(青山学院大教員)は基調講演の初めに、100歳以上の不明高齢者の問題に言及した。行方不明者のうち外国籍の人は在日朝鮮人であり、非識字による情報からの遮断、社会保障制度からの疎外によって孤独な晩年を過ごさざるを得なかった。その存在が全く見えないものにされている。「100歳問題」とは、日本の侵略から始まる「在日」の歴史を示す問題そのものであることを指摘した。菅談話に対しては「慰安婦」問題や在日朝鮮人問題が「地雷として避けられ」、植民地主義を問う問題のあり方とつながらない談話であったと批判した。そして、これまでの日韓連帯の運動のあり方に対して、「在日」との連帯という点で、本来は日本社会の民主主義の問題であるにもかかわらず、自己の問題として取り組む問題意識が育まれてこなかったのではないか、と日本の民主主義の内実について問題提起した。さらに、戦後日本が天皇制存続を前提に日米安保体制を構築したことの持つ問題性を指摘。「南北分断の合わせ鏡として日本の歴史認識の不在、ゆがみがある」と、韓国強制併合100年にあたり、1945年で歴史が変わったのではなく、連続した100年として捉えることが重要であり、朝鮮半島の平和と民主主義は、日本の平和と民主主義に深く関係していることを認識しないと、植民地主義の克服どころか真の連帯も実現しないことを強調された。
様々な問題の中にこそ、
植民地支配の100年がある
休憩の後、被害当事者からの証言として、今回初めて証言に立った元日本軍「慰安婦」被害者、元強制動員被害者、サハリン残留者などからの証言、関東大震災時の朝鮮人虐殺の真相を解明し名誉回復を求める市民の会、日朝国交正常化を求める運動からの発言があった。また、「在日」から二人が証言に立った。一人は「在日」二世のピアニスト崔善愛(チェ・ソンエ)さん。「在日」として受けた差別の体験を通して、初めて自分が天皇制から逃れられないと知ったという。21歳の時に指紋押捺を拒否して再入国不許可処分を受け、1986年再入国不許可のまま出国し協定永住権も剥奪された。指紋押捺裁判は1989年の天皇恩赦で「免訴」となったが、恩赦を拒否して闘った。一世が受けた日本の植民地支配は、「在日」の自分の体験を通じて今も続いていることを指摘し、拉致問題や朝鮮学校の問題など、さまざまな現実に起きている問題の中にこそ、植民地支配の100年があるということを強調した。
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ソウル・南山の統監官邸跡地(現在ソウルユースホステル入口公園)に建てられた強制併合条約締結地の標石。「強制併合条約を公布した8月29日の国恥の歴史を記憶し、二度と恥ずかしい歴史を繰り返さないための誓いの場」として、8月29日、除幕式が行われた。 |
もう一人は東京朝鮮中高級学校生徒。高校無償化対象からの除外の早期撤回を求めて署名活動などを行っている。「学生として学びたい。そんな普通のことが朝鮮学校に通う学生たちにとっても当たり前のことになるように、私たちは青春の一秒一秒の全てを注ぎ、高校無償化問題を必ず解決し、希望に満ちた未来を掴み取ってみせます」と力強い決意が語られると、会場からひときわ大きな拍手が起こった。
再び休憩の後は歌手・沢知恵さんのコンサートがあった。日本人宣教師の父と韓国人の母との間に生まれた彼女は民主化闘争の渦中で育ち、戦後韓国で初めて公式に日本語で歌った経歴を持つ。
最後に、日韓市民共同宣言・行動計画案が朗読で提案され、全体の拍手で採択された。
「韓日市民共同宣言大会」閉幕式
成均館大学に1000名が結集、
同日サハリンで2500名の集会
「国を失った嘆き」を表すかのような台風による暴風雨の中、ソウル成均館大学で、日本による侵略戦争の被害者を始め約1000名の参加者で行われた。同日、サハリンでは2500人で集会が行われた。この大会に向けては、西大門刑務所歴史館の特別展示会や、25日の日本軍「慰安婦」問題解決のための定期水曜デモ、27〜28日学術大会など、韓国各地で関連する様々な取り組みが行われた。
「日本の過去史を問わない」李明博(イ・ミョンバク)大統領のもとで、哨戒船沈没事件に示されるような対朝鮮敵視政策が取られている。この大会に参加予定であった「朝鮮」籍の発言者は、韓国政府によって入国を拒否されている。
韓日両国政府は信頼できない、
韓日市民の実践で問題解決を
閉幕式は聖フランシス大学風物牌“トゥドゥリム”による韓国の伝統音楽サムルノリ、イェイル女高生のホ・ソワンさんが日本軍「慰安婦」のために自ら作詞した歌を独唱した。
李離和(イ・イファ)さんは「菅談話に対して李明博大統領は歓迎の意を示しましたが実体は何もありません。もはや韓日両国政府は信頼できません。韓日両国の市民たちが力をあわせ諸課題を解くべきです。言葉ではなく実践が大事です。今日は終わりではなく門出です。これからも連帯を強化していきましょう」と開会の挨拶を行った。そして、参加者全員が起立して犠牲者に黙祷を捧げた。 
大会に向けての経過報告があり、続いて現場報告としてサハリンからキム・ウェチョルさん(サハリン韓国人二世)が発言した。「1945年8月15日、日帝36年が終わって光復を迎えたのですが、日本は皇国臣民と言いながらサハリンまで連行してきたサハリン韓人たちを自国民ではないという理由で敵地に投げ捨てて撤収してしまいました。日本帝国主義の蛮行によって私たちは亡国と遺棄の歴史を生きてきました。しかし、日韓請求権協定で植民地の補償は終わったと徹底的に主張している日本に同調するように韓国政府は実質的な歴史回復のための政策を全く出していません。私たちは韓国の国民としての忘れられた権利と幸福を取り戻そうと活動をしています。」と訴えた。
共同宣言では、これまで戦後補償の課題の中でも見落とされてきたサハリンや関東大震災朝鮮人虐殺問題も具体的行動計画で取り上げている。
日本実行委員会の共同代表の鈴木裕子さんが連帯のあいさつ。参加している韓日国会議員が紹介された。
「日韓市民共同宣言」が
朗読され、採択された
そして宣言文の朗読が行われた。
まず、「植民地主義は現在を生きる私自身の問題である」という日韓青年学生決意声明文から読み上げられた。この大会のスタッフは主に韓国の青年学生たちが担っており大勢の若者たちが大会を支えていた。
実行委員の共同代表らが登壇し、壇上のスクリーンに映し出されたハングルと日本語の宣言文を背に、「植民地主義の清算と平和実現のための日韓市民共同宣言」の朗読が行われた。この宣言は「1・前文 2・朝鮮侵略と強制占領 3・植民地支配 4・敗戦と解放以後東アジアの平和な未来を築くために」から構成されている。前文だけ読み上げ、20項目ある日本の植民地支配によって引き起こされ、いまだに解決されていない課題の解解決を求める「私たちの要求と行動計画」が読み上げられた。そして、具体的行動計画が、各分野別に提起された。日本軍「慰安婦」問題、サハリン関係、関東大震災「朝鮮人虐殺」問題、強制動員被害者問題、民族問題、日本の歴史歪曲問題、靖国問題。そして、最後に「東アジア歴史人権宣言」に関して、「500年にわたる西欧中心の世界の克服という普遍的な歴史的脈絡の中に日本の侵略・植民地支配を位置づけ、東アジアの近現代史を全面的に見直し、ダーバン宣言の精神を東アジアにおいて具体化し、さらにダーバン宣言を乗り越えるために2011年9月に東アジア宣言大会を開催し、共同して宣言を策定する」ことが、立命館大学教授・同コリア研究センター長の徐勝(ソ・スン)さんから提起された。
参加した被害者たちが登壇し、全体でこの宣言を採択した。韓国強制併合100年の節目に、日韓両国の市民が日本のアジア侵略・植民地支配の歴史認識を共同宣言として採択したことの意義は非常に大きい。
両集会ともに、日本人の立場が問われた大会であった。「日韓市民共同宣言」を出発点として、民衆的な現場での闘いに発展させていくことを、自らの課題としたい。(了)
植民地主義の清算と平和実現のための
日韓市民共同宣言〈上〉 |
2010年8月22日
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強制併合100年共同行動韓国実行委員会
強制併合100年共同行動日本実行委員会 |
編集部から
ここに紹介する宣言は、8月22日の東京「日韓市民共同宣言日本大会」、8月29日のソウル「韓日市民共同宣言韓国大会」で採択された、「日韓市民共同宣言」です。全文12000字近い長文ですが、日本帝国主義の植民地主義の清算と今後の東アジアの平和実現のために、各地・職場で学習し、賛同と行動の輪を広げていただきたく、ここに何回かに分けて掲載します。大見出しは編集部の責任で付けています。 |
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一 前 文
1 1910年8月、日本帝国は天皇の名において大韓帝国に「韓国併合条約」を強制し、主権を奪い、過酷な植民地支配を開始した。36年に及ぶ日帝の植民地支配は朝鮮民族の尊厳を深く傷つけた。それから今年で100年になる。植民地支配は、1945年8月15日、日本のポツダム宣言の受諾―敗戦によって終結した。その敗戦、朝鮮解放から65年が過ぎたが、日本政府は今でも、「併合条約」は適法であり、有効であったと主張している。植民地支配の実態、その真相については究明するどころか隠し続け、被害者に対する謝罪、賠償もほとんどおこなっていない。他方、朝鮮は日本の植民地であった結果、米国の戦後の分断政策と、ほぼ同時期に始まった東西対立・「冷戦」によって南北に分断された。1950年6月には朝鮮戦争が起こり、民間人を含む300万人が死亡し、1000万人の離散家族を生んだ。軍事境界線をはさんで南北は今も軍事的対立関係にあり、終戦と平和への見通しも立っていない。日本と朝鮮民主主義人民共和国とは国交さえ正常化していない。植民地主義の清算はまだ終わっていないのである。
2 2001年、南アフリカのダーバンで、「人種主義、人種差別、外国人排斥及び関連のある不寛容に反対する世界会議」が国連主催で開催された。そこで採択された「ダーバン宣言」は、初めて「奴隷制と奴隷取引」を「人道に対する罪」と規定した。植民地主義についても「非難され、その再発は防止されねばならない」ことを確認した。その上で、過去数百年にわたってアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの多くの民族・民衆を苦しめた奴隷制と植民地支配の清算をおこなうことは歴史的課題であると宣言し、その実現に向けての行動計画を打ち出した。つまり、「合法」であったか否かを論ずる以前に、植民地支配それ自体を人類に対する犯罪であると断じ、その被害がなお継続している現実を直視し、克服していくことを提起したのである。画期的な意義を有するこの宣言は、欧米諸国のみならず日本を含むすべての旧植民地国家に突きつけられている。
3 韓国強制併合100年を迎える今、植民地主義を清算し、東アジアの平和な未来を構築することは日本と韓国・朝鮮、東アジアの市民の共通の課題であり、そのために手を携えて共同していくべきときである。私たちは、ここに「日韓市民共同宣言」をおこない、東アジアにおける負の歴史の清算と人間の尊厳の回復、平和の実現に向けての課題と行動計画を提起する。
二 朝鮮侵略と強制占領
1 1875年9月、日本は軍艦を江華島に侵入させ、江華島事件を引き起こし、翌年、朝鮮に不平等な日朝修好条規の締結を強い、朝鮮侵略の足場を築いた。これと前後してアイヌモシリと琉球を強圧的に植民地化して帝国に組み入れ、さらに1894年、日本は日清戦争を起こした。日清戦争と言うが、その戦場は朝鮮・中国・台湾にまたがり、朝鮮では日本の侵略に抗して決起した東学農民軍2〜5万人を、旅順戦では2万人余の非戦闘員を、台湾領有戦争では割譲・植民地化に抵抗する義勇兵・民衆約1万4千人を虐殺した。日本軍による最初のジェノサイド(集団殺戮)であった。日本は、日清戦争を通じて朝鮮から清国の勢力を追い出し、また台湾を植民地とした。これは日本のアジア・太平洋における50年以上にわたる侵略と戦争の始まりであった。
2 1904年、日本はロシアと戦端を開いた。大韓帝国に対するロシアの影響力を排除し、朝鮮半島を支配下に置くためであった。日露戦争で日本は朝鮮半島を戦場とし、韓国の「保護国」化を進め、ポーツマス条約締結後には、さらに外交権を奪い、軍隊を解散させ、内政監督権を掌握した。また、独島=竹島を日本に強制編入した。その上で大韓帝国併合をおこなった。日本は、この過程を進めるため、軍事的脅迫の下、韓国皇帝に1904年から07年にかけ日韓議定書、第1次日韓協約、第2次日韓協約(乙巳条約)、第3次日韓協約(丁未7条約)の4つの「条約」、1910年に「併合条約」の締結を強要した。「対等な立場」でも、「自由な意思」によるものでもなく、条約は正規の形式・手続等を欠いていた。4つの「条約」、「韓国併合条約」は、国際法に照らして明らかに違法・無効である。
3 日本の韓国強制併合に対し、朝鮮の女性を含む民衆、軍人は義兵闘争を起し、安重根は「東洋平和侵害」の責任者たる伊藤博文を射殺した。しかし、日本は義兵闘争を武力鎮圧した。捕捉した義兵もその多くを捕虜として扱わず現場で射殺した。1913年までに犠牲となった義兵の数は日本側資料で確認できた限りでも1万7千余人にのぼる。これもまたジェノサイドであった。他方、日本においても社会主義者らが日露戦争反対を唱え、1907年には「朝鮮人民の自由、独立、自治の権利」を決議した。これに対し日本政府は「大逆事件」で幸徳秋水、管野須賀子ら24名に死刑判決を出すなどの弾圧を加えた。この弾圧と韓国強制併合は同時におこなわれた。
4 「併合条約」前文は、韓国併合の目的を「相互の幸福の増進」と「東洋の永久の平和の確保」にあるとうたっていた。しかし、そもそも日本帝国の朝鮮植民地化は、「帝国百年の長計」として企図された。即ち、朝鮮半島を中国侵略の橋頭堡としていくために併合を計画し、実行したのである。そして、日本はジェノサイドを繰り返すことで植民地化を達成していった。その後の日本は、植民地朝鮮を足場として、中国、「満州」からさらにアジア全域へと侵略を拡大していった。アジアを戦争と恐怖のるつぼと化し、民衆に多大の損害と苦痛を与えた。条約前文とは裏腹に、併合条約は、両国の民衆を不幸にし、東洋の平和を破壊するものにほかならなかった。
三 植民地支配
1 韓国併合を強行した日本は、現役軍人を朝鮮総督に任命、軍事的支配を強化し、併合に抵抗する朝鮮民衆を弾圧した。国策会社であり天皇・皇族が大株主の東洋拓殖株式会社は土地調査事業によって獲得された大規模な土地を安値で買い取り、高率の小作料の植民地地主制を強化し、朝鮮農民を収奪した。産米増殖計画によって朝鮮米が大量に日本に流出し、多くの自作農が小作農など貧民に没落していった。また、朝鮮全土から文化財を収集・略奪するなどし、それを様ざまな経路で日本に持ち出した。
2 1919年3月1日、独立運動家、宗教指導者33人が独立宣言を発表した。3・1独立宣言は日本帝国の朝鮮支配が全アジアに不幸をもたらす所以を理路整然と説き、日本人を諌めるものであった。しかし、日本政府はこの貴重な忠告に耳を傾けるどころか、独立宣言起草者を逮捕・投獄し、さらに独立運動に決起した数百万にのぼる民衆に弾圧を加え、数千人を虐殺し、多数を逮捕、負傷させた。しかし、独立運動は朝鮮半島内にとどまらず広がり、中国の上海では臨時政府が樹立され、中国東北部の間島地方では武装闘争が展開された。これに対し日本は間島地方の朝鮮人村落でジェノサイドをおこなった。日本国内でも1922年、新潟県中津川における朝鮮人労働者の虐殺・虐待事件に対し、真相究明運動などが展開された。これは宗主国たる日本国内における独立運動・労働運動の端緒となった。1920年代以降も、朝鮮独立闘争、抗日戦争は中国、台湾、日本国内において継続されたが、これに対し日本政府は治安維持法等を過酷に適用した。
3 1923年9月、関東大震災時の戒厳令下で、「朝鮮人が毒をまいている」などの「デマ」がまき散らされ、この「流言飛語」により関東在住の朝鮮人が軍隊・警察および民衆の手にかかって殺害された。官憲が遺体を隠し、証拠隠滅を図ったために正確な数は不明であるが、犠牲となった朝鮮人の数は数千人にのぼる。「流言飛語」は官憲が組織的に流したものであり、住民らに大きな影響を及ぼした。この虐殺について大正デモクラシーの思想家吉野作造は「世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」と述べ、山川菊栄らの社会主義者も朝鮮人虐殺を糾弾した。関東大震災時朝鮮人虐殺の第一の責任は、あくまで日本政府にある。
4 1930年代に入ると日本帝国は、中国侵略を本格的に開始し、先ず中国東北部(「満州」)を占領し、さらに北京、上海に派兵、中国全域に侵略を拡大した。そして、これと平行して「内鮮一体」を唱えて朝鮮植民地支配をいっそう強化していった。「皇国臣民の誓詞」の暗唱、神社参拝、宮城遙拝、朝鮮語の禁止、創氏改名などにより朝鮮固有の文化を圧殺して朝鮮人の皇民化を推進した。それは文化的ジェノサイドとも言うべきもので、朝鮮を中国、さらには東南アジア侵略のための兵站基地とするためであり、朝鮮人を天皇の命令に従って死ぬことのできる忠良な臣民にしていくためのものであった。
5 日本は、侵略戦争を拡大していくに伴い、総力戦体制を構築するために日本人だけではなく朝鮮人の強制動員をおこなった。日本の青年層を根こそぎ戦力動員したことにより深刻な労働者不足に陥った企業・生産現場には朝鮮人を労働動員し、兵士不足を補い、弾除けとするために兵力動員をおこなった。
戦時生産を維持するために、1939年以降、「労務(国民)動員計画」等を閣議決定し、朝鮮半島から日本国内、千島・樺太、南洋諸島などの鉱山・軍需工場・土木工事現場等に動員し、賃金もまともに払わず、強制労働を強いた。また、12〜15歳の少女たちを甘言によってだまし、女子勤労挺身隊として軍需工場等に動員した。これらの労働動員は、ILOの強制労働禁止条約(日本は1932年批准)違反であった。過酷な労働・虐待、原爆被爆、空襲、艦砲射撃等によって多くの労働者が死亡した。死亡者の遺骨は今も各地に放置されている。解放後も日本に残留、サハリンに置き去りにされた朝鮮人も多く、家族の離散という深刻な問題も発生した。
不足する兵士を補充するために、1938年から志願兵の募集を開始、1944年からは徴兵制を適用し朝鮮人兵士を戦場に送った。捕虜監視員、軍属・軍夫としても動員した。戦場に送られた兵士、軍属等のうち数万人が戦闘、飢餓、疾病等で死亡した。その遺骨の多くは放置され、遺族のもとに返された例は少ない。さらに、遺族に通知もせず、同意を求めることもしないまま、靖国神社合祀だけがおこなわれた。しかも靖国神社は遺族の合祀取消し要求を拒み、「2次加害」を犯している。一方、生き延びた者でも重い障害を負った者、「BC級戦犯」として裁かれ死刑などの重刑を受けた者、シベリアに抑留された者など過酷な運命を強いられた被害者は少なくない。しかし、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給等の適用については「日本人ではない」という理由で排除された。2010年に成立した「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」でも朝鮮人・台湾人は除外された。これは国際人権規約に違反している。
労働・兵力動員された被害者らには、戦後、未払い賃金や手当、貯金、厚生年金等の労働債権が未清算のまま残されていたが、それは日韓請求権協定と法律144号で一方的に権利を消滅させられた。
6 朝鮮人女性に対しては、彼女らの尊厳を根底から踏み躙る「性的動員」「性奴隷化」を強行し(日本軍「慰安婦」制度)、心身に癒しがたい傷を刻みつけた。旧日本軍は、侵略戦争に兵士たちを駆り立てるため、女性の性を徹底的に道具として、兵士に「あてがい」、軍の「士気」高揚を図った。日本軍「慰安婦」制度とは、「女性の性」を利用し、兵士たちの性管理・統制をおこなう、侵略戦争の遂行・維持政策でもあった。このような女性の人間としての尊厳を粉々に打ち砕いた軍・国家の犯罪に対し、日本政府は、今に至るも彼女らに謝罪や賠償などの公的責任を履行していない。「女性のためのアジア平和国民基金」は、日本軍「慰安婦」制度が国家犯罪・国家暴力であることを隠蔽し、日本政府の責任を免罪するものでしかなかった。
7 さらに戦争末期、1945年3月には米軍による東京大空襲があって約10万人の市民が犠牲となったがその犠牲者の中に少なくとも1万人の朝鮮人が含まれていた。また8月には広島と長崎に原爆が投下されて、両市合わせて30万人を越える犠牲者が出たが、そこにも数万に及ぶ朝鮮人が含まれていた。日本政府は、空襲被害者には何の補償もしていない。韓国人原爆被爆者に対しては、厚生省の一片の通達で原爆医療法・特別措置法・被爆者援護法の適用から排除した。この通達は2007年11月の最高裁判決で違法と判断され、在韓被爆者に対して日本人被爆者と同様の医療支援等を行うことが義務づけられた。しかし、差別は依然として解消されておらず、在朝鮮被爆者には今に至るも何の援護も実施されていない。
〈次号に続く〉
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