第36号(2011/6/1)●6面
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追悼 いいだももさん

そのこころざしを継ぐ

生田あい 


突然の別れ

 「生田さん、ももが会いたがっているの、きてくれる。何だか難しいことを口にして、この話は生田にしか分からない、としきりにいうのよ。」
 3月19日の夜、奥様の玲子さんから電話をいただき、翌日、予定されていた会議を中断し、尾形憲さんらの寄せ書きをもって藤沢に駆けつけた。
 ももさんは、夕食時で、車椅子にもたれるように座っておられた。その姿に、内心、息を呑んだ。すっかりやせて、左のまぶたがむくみで垂れ下がっておられ、とてもつらそうにされていた。「来ましたよ」とまん前に膝を突き合わせるように座った私に、ももさんはちょっと表情をなごませ、玲子さんが一生懸命に口の中に一さじ一さじ押し込む食べ物を、「もういい、もういいよ」といいながらも飲み込んでいた。
 (夫妻は前から延命治療も胃にチューブで栄養を流し込むのもしないと決めていた。)
しばらくして、「ももさん、お話を伺いにまいりました」と、私は言った。ももさんは、車椅子の両肘についた手に力を込めて姿勢を少し直し、真っ直ぐにわたしの方を向き、カッ―と両眼を大きく見開いて何かおっしゃろうとした。一瞬炎が立った様な強い眼光がわたしの背骨を射した。何十秒だったのか、私にはとても長い時間のように思われた。言葉は発せられなかったが、私は大きくうなずいた。疲れて横になりたいというももさんをだき抱えてベッドに移し、玲子さんが手を、私が象の足のようにむくんだ両の足をさすりながらいろいろなことを話した。ももさんは眼を瞑ってそれを聞きながら、次第に安らかな表情になり、うとうと眠られた。これが、私のももさんとの別れだった。
帰り道、大震災直後の余震に揺れるがらんとした薄暗い終電車のなかで、その夜に玲子さんから聞いた「蝋燭が自分のエネルギーを使い果たすように」という医者の見立てのことを思った。巨大な眼になったかのような、見たことのないあの強い眼光は、最後の力を振り絞ったものだったのだと、一人、覚悟を決めた。
31日、お亡くなりになったと連絡を受け、ご無理を言って、ご自宅に戻られてお棺のなかのももさんにお会いした。祭壇も経も戒名もなく、お孫さんが摘まれた庭の野の花に埋まり、息子さんたちの贈り物のしゃれたマフラーと一張羅のスーツで、赤旗に見立てた赤い布に包まれ、玲子さんによるももさん若き日の詩の朗読に葬送されて、ももさんは旅立たれた。

もさんとの出会い、そして同志として

 ももさんと初めてお会いしたのは、1970年代末、九段下の「クライシス」事務所だった。当時の私は、上京したばかりの恥も恐れも知らぬ30代で、新左翼の四分五裂の克服と共産主義者の統一を呼びかけ奔走していた。1980年、ももさんは、「クライシス」の研究会の席で、故山川暁夫さんと私に「共産主義者の統一と建党」について提起をする機会を下さった。その会に着流し姿で参加されていた寺尾五郎さんが、「おい、その話のった」と、スクッとたち上がった。この寺尾さんを代表として1986年に発足した「共産主義者の建党協議会」への扉が開いた瞬間だった。
ももさんは、別枠で組織された理論委員会で故降旗節雄、伊藤誠両先生、準備会側の寺尾、山川、生田と共に『暫定綱領』(案)の集中討議をリードされ、理論顧問として尽力されがらも、組織には参加されなかった。
 そして1989―91年の天安門事件・ソ連邦消滅という象徴的事件が起こり、世界史的大転換は「20世紀社会主義」とその体制の崩壊となって現われ、全世界の左翼勢力が「総崩れ」し、これまでの深度と根底性を超える新たな思想的課題が問われることとなった。ももさんは、近代日本の思想アンソロジ―『思想の海へ―解放と変革』全31巻の刊行の渦中にあり、建党協では、別の道を歩むものも生まれ、寺尾さんが最初のガン手術で代表を固辞され、生田が代表を務めることになった。手術後の寺尾さんが、杖をついて私を連れて藤沢のいいだ宅を訪ね、正式に建党協に組織参加し、顧問となって若い者の相談役を担ってほしいと話したのは、この頃である。「俺はもう長くない。若いものがこれからも頑張るというから、力を貸してやってくれないか。」という寺尾さんの話をじっと聞いていたももさんは、すぐに「分かりました。やります。」と答えた。この夜は,ももさんのお宅に泊まり、2人は実に楽しそうに酒を酌み交わし、今後のことを話し合った。
 以後、ももさんは顧問として、1999年に寺尾さんが逝去された後も、自らもガン手術後の身でありながら、建党協から「コム・未来」,「協同・未来」、今日の「革命21」(準)へ、道なき道を行くが如くの苦労をわたしたちと共にされた。

ももさんの
最後の問題意識

「マルクス没後の極東の一門人」と自称し、現代を生きるマルクス主義者、コミュニスト・いいだももさんのソ連邦崩壊と9・11事件以降の最大の問題意識は、現代資本主義とその基軸国家たるドル・核帝国アメリカの没落への確信とこのことが意味する時代の危機の深さへの認識に立って、現代資本主義を打倒し未来を創造する世界史的主体をいかなる質で形成するかの問題であった。時代の危機の深さへの認識とは、2つの世界大戦とヒロシマ・ナガサキの原子力時代を経過し、ブルジョア社会の高度成長・大衆消費時代の到来とともに完成された物象化社会における「主体の消滅」にみるように、「神は死んだ」が同時に「人間もまた死んだ」という拮抗線の水準に即して、時代は彼我の「ハルマゲドン」へと突入しつつあるという認識であった。そこから21世紀に人類は生き残れるかという問題意識である。
 ももさんの真骨頂は、それを絶望へではなく「21世紀は希望の世紀か」と問い、「然り、希望の世紀だ。わたしたちがそうしなければならない。そうしないならば、二度目の千年紀最初の世紀は、人類文明史の破滅―共滅となって終わらざるをえない」と、《いま、ここ》の革命主体形成に引き寄せたところにある。その主体再生のために、『20世紀の社会主義とはなんだったか』で総括を、また主体再生のオルタナテイヴの前に立ちはだかる問題構成の大きさ、深さを解くために『主体の世界遍歴―八千年の人類文明史はどこへ行くか』で、地中海に始まる人類文明史に潜航し往還しながら、現在のパックス・アメリカーナの没落をローマ帝国の世界史的没落に重ねて現代の主体形成に問う意味を考察した。ももさんは呼びかけた。「〈いま、ここ〉が、その歴史的跳躍の踏み切り点である。わたしたちは生きてゆこうとする限り、この踏み切り点で翔ぶことが強制されている。八千年の長い、長い,助走期を息も切らさず全力で疾走して、21世紀に向けて長躯しよう」と。
 そして、それは現実の情勢となって進行した。世界金融恐慌の到来である。ももさんはこの到来を予見し、闘病の身でありながらも私達と「資本論研究会」を持った。二年間に1巻―3巻を読み返し、『恐慌論』をものにし、労働者大衆の生活経験と生活要求に深く根ざした大衆闘争をもって革命闘争に転じていく唯一無二の絶好のチャンス到来とわたしたちを叱咤激励し続けた。

志を継ぐ

寄せ、その闘いの帰趨に日本の革命主体と革命運動の未来がかかっているとみていたのは沖縄と関生労働者の闘いであり、革命21準の新党への飛躍の事であった。
 そしてここ2年ぐらい、最後の遺言として話した問題意識は、最末期にある金融資本に後がなく、時代は縄文時代の1万年におよぶ大過渡期に踏み込んでおり、私たち自身の革命構想力がそのスケールで問われていると。2009年1月のコモンズ新年号に寄せた最後の新年挨拶は、「左へ!左へ!さらにもっとより左へ!一世紀振りに、いまここで再び」と題され、次のような言葉で結ばれている。
 「農耕文化の上に登場した弥生時代以降の階級社会の社会構成体の発展史の生命活動が、終焉を告げているとみなすこともできる。無階級社会であった縄文時代の再来として、「第二の縄文時代」への人類史の壮大な大過渡期へと、アメリカ発の世界信用恐慌にゆれる全地球の人間は進んでいくだろう」
 当時の私たちは、「8000年から今度は1万年ですか」と悪態をついた。しかし、本年の3・11東日本大震災と原発暴発の只中で、沖縄と同時に東北という、いずれも近代国家日本がいわば辺境の「植民地」として犠牲と苦しみを強制してきた歴史と構造が暴露され、大震災の裂け目から受苦の苦難のなかにも新たな共助・協同の主体的胎動がそこ・ここで芽生えるのをみるとき、それは荒唐無稽な話ではないように覚える。
 ももさんは現場の労働者と話すとき、学者と話すときと同じように話し、決して理論水準を下げたりしなかった。そこには、世界を変える社会的使命を持った、世界史的主体になるべき労働者へのももさんの信頼と期待があったからだと思う。

わたしたちは、いいだももさんと同志として活動し、貴方から受け取りきれないほどたくさんのことを学んだことを、誇りに思います。
 ももさん、本当にありがとうございました。
 今夏、わたしたちは、3・11以降の新しい未来の希望に向かって飛躍します。
 共にいてください。  2011年5月28日  革命21(準)事務局長

 

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